日本復帰の年に沖縄県勢 悲願の初五輪 1972年ミュンヘン・三段跳び 具志堅興清さん(77) うちなーオリンピアンの軌跡(1)


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 1972年8月26日、西ドイツ(現ドイツ)ミュンヘンのオリンピック・スタジアムで入場を待つ男の心は高揚と緊張で入り交じっていた。この日、開幕のミュンヘン五輪に陸上三段跳びの日本代表として出場する具志堅興清(77)=岐阜県在住=だ。沖縄県勢として初の五輪出場を決めた。故郷の期待を背負い、夢にまで見た世界の大舞台に立った。そろいの真っ赤なジャケットを羽織った日本選手団。左胸には日の丸。8万の観衆で埋まったスタジアムを具志堅は大手を振って行進した。

真っ赤な日本代表ユニホームを着てミュンヘン五輪閉会式で行進した具志堅興清さん=1972年(本人提供)

 沖縄のスポーツ界にとって悲願の五輪代表だった。40年の東京五輪は、陸上円盤投げで強さを誇った宮城栄仁の代表入りが確実視されたが、第二次世界大戦の影響などで開催されず。

 56年メルボルンで走り幅の照屋朝包、64年東京のマラソンに時志為男、68年メキシコシティーで具志堅らが候補選手となったが、いずれも代表入りはならなかった。

 72年5月に沖縄は日本復帰したばかり。当時、日本オリンピック協会の調査団員で、日本陸上界の発展に貢献した村社講平は具志堅らがついに果たした県勢の代表入りについて、53年の初来沖時を振り返り「米国に遠慮なく、日の丸を胸に着けられるのはオリンピックの選手になる以外にないと若者を激励したことを思い出した」と万感の思いを語っていた。また、どの県よりも沖縄の期待が絶大だろう、とした上で国旗のために戦うのではなく、メダルのためでもなく、まずは実力を出し尽くしてもらいたいと期待していた。

日本復帰の年、30歳で挑む

 具志堅興清は太平洋戦争まっただ中の1942年、今帰仁村仲宗根でサトウキビやパイナップルなどを育てる農家の9人きょうだいの次男として生まれた。

「なかなか片付けられないんだよ」と現役時代の思い出の品を前に、当時を振り返る具志堅興清さん=9月24日、岐阜県の自宅

 進学した北山高は校内行事として春には球技、秋には陸上の大会が行われていた。全島大会の学内予選も兼ねていた。野球部に所属した具志堅だが、俊足は陸上部顧問の目に留まっていた。400メートル走が得意で「400のタイムは55秒8くらい。校内でもまあまあ速いほうだったよ」と代表にも選ばれた。

 転機は2年の時。陸上部の西平守慶顧問から「来年は三段跳びで出場してみないか」と誘われた。目をかけられたことで、1年間奮起した。朝は自宅近くの大井川沿いを走り込み、夜は野球部の練習に打ち込んだ。

 成果あって、標準記録の13メートル86を3センチ超える13メートル89で、全国高校対抗陸上選手権への切符を手にした。迎えた3年の夏、初めてパスポートを作り、静岡県での大会に挑んだ。だが、結果は予選落ち。上位の15メートル越えに対し「まだ14メートルも跳べなかったがね」。全国との差は歴然だった。何となく始めた三段跳びだったが「やっぱり悔しかった。本格的に陸上一本でやってみたいと考えた」。県外大学への進学を考え始め、未来の日本代表への一歩を踏み出し始めた。

名古屋で大成

 本格的に三段跳びを学ぼうと県外進学を決心したが「まだ復帰前。一人で県外に行くって本当はすごく勇気がいった」と迷いもあった。背中を押してくれたのは両親だった。毎月30ドルの仕送りも続けてくれた。

 陸上の強豪、中京大に進学。そこで、走り幅跳びで活躍していた加藤孝司との出会いが具志堅を覚醒させる。加藤から11~3月の冬のトレーニング期の「練習相手になってほしい」と誘いを受け、マンツーマンの練習が始まった。跳び方やフォームは異なるが「練習内容は一緒で基本をたたき込まれた」と跳躍のこつを仕込まれた。もも上げ、腕振りから筋力づくりに至るまで「単純作業の繰り返しだったが、何も分からない中、基礎を学べた」と選手生活の土台を築いた。

 4年時、快進撃が始まる。65年の日本選手権で15メートル86で優勝を飾った。卒業後は競技を継続できる環境があった名古屋鉄道に就職。すると、66年の選手権は15メートル55、67年の全日本実業団選手権は16メートル04、68年の実業団対学生対抗選手権で16メートル01といずれも頂点に立った。ほかの主要大会でも上位入賞した。

運命変えたアジア大会

 五輪を意識したのは初めて出た66年のアジア大会。出発前のインタビューで記者から「具志堅君、次はオリンピックだね」と掛けられた言葉が頭を離れなかった。

 そのアジア大会は、出発前の好調を維持し、15メートル61で表彰台の頂点に。国旗が中央に掲げられていく様は「感慨深いものがあった」と今でも鮮明だ。

 帰国後は2年後のメキシコシティー五輪を照準に据えた。だが、無理な大会出場や練習がたたり、代表最終予選は15メートル96で、標準記録に4センチ届かなかった。

 五輪への思いは日増しに強くなった。「また日の丸がてっぺんに掲揚される姿を見たい」と起き上がった。ミュンヘン五輪までに、実業団の大会や全国大会で順調に記録を伸ばし五輪前の自己ベストは、16メートル32。当時の世界大会入賞圏は17メートル。「これなら世界と闘える」と確信を胸に鍛錬を続けた。

1センチの壁

 72年5月、故郷の沖縄は日本復帰で湧いた。翌6月、日本陸連の選考で代表入りが決定した。同月で30歳。年齢的にも「最初で最後だと思った。4年後のモントリオールとなると体力的にも厳しい」と感じていた。

 ミュンヘンの本番は9月3日。予選1組の具志堅は予選突破記録の16メートル20を超える自信があった。「自己ベストは16メートル32。ミュンヘンに来てから調子は上向きだった」。だが、力み過ぎた。空中で力強く前進するフォームが取れなかった。予選の3度の試技で記録が残ったのは最初の16メートル19センチ。決勝に残るにはわずか1センチ足りなかった。具志堅が終えた時点で予選記録突破は11人。最低12人で争う決勝にはあと1枠あった。決勝進出の可能性を残し「頼む」と祈ったが、最後の米国選手が進出を決めた。「1センチで落ちるとは。全く残念」。

 この時点で競技引退を決心していた。「世界の選手は体のつくりから全く違った。もうやり残したことはない」と潔く決めた。

つなぐ思い

 岐阜県の自宅で透明な衣装ケースを開き「五輪出場が決まった時に地元の応援団が書いてくれた日の丸。これは表紙を飾った陸上雑誌」と思い出の品々を紹介してくれた。丁寧に整理された品々は世界で輝いた証しだ。県勢の陸上の五輪代表は具志堅の後には選ばれていない。昨年、母校の北山高にミュンヘンで使ったシューズを寄贈した。沖縄を離れて約60年。具志堅に続く、沖縄からの陸上五輪代表の誕生を今か今かと待ち望んでいる。

日本代表が決まり「沖縄の人からもらったんだよ」と47年間大事に取っている日の丸を広げる具志堅興清さん=9月24日、岐阜県

(上江洲真莉子)
(敬称略)

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 2020年、東京五輪・パラリンピックが開催される。スポーツの世界最大の祭典に出場を果たした県勢オリンピアンの奮闘の軌跡を追い、東京大会に向けた思いを紹介する。