身長155センチの〝小さな巨人〟 師の夢継ぎ拳に闘志 72年ミュンヘン・ボクシング 新垣吉光さん うちなーオリンピアンの軌跡(2)


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ミュンヘン五輪のボクシングライトフライ級初戦に出場した新垣吉光(中央)=1972年8月28日、ドイツ・ミュンヘン

 1972年8月、西ドイツ(現ドイツ)ミュンヘンのボクシング・ホール。身長155センチの沖縄出身ボクサーが、拳を鋭く繰り出しながら、前へ、前へと圧力をかける。小柄だが眼光は鋭く、体全体から発する闘志で体の大きな欧州の選手を追い詰めていった。

 試合はミュンヘン五輪のライトフライ級1回戦。選手の名は新垣吉光=故人=。当時、日大4年でボクシング部主将を務めた。代表決定は陸上三段跳びの具志堅興清に5日遅れたが、具志堅と共に県勢初のオリンピック選手として22歳で挑んだミュンヘン大会だった。

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 50年8月14日、那覇市小禄生まれ。幼少から体が弱く「鍛えたい」という一心で沖縄高(現沖縄尚学)に進むとボクシング部に入部した。

 当時、沖縄高の監督だった幸喜良正(79)=現・県アマチュアボクシング連盟顧問=が「抜群だった」と舌を巻いた反射神経を持ち、鍛えると非凡な才能はすぐに開花した。リーチの長い相手に対し、軽快なフットワークで懐に飛び込み、左右の鋭いパンチでなぎ倒す。勝負度胸も兼ね備え、幸喜は「根性は人“5倍”あった」と振り返る。

 高校2年から全国総体モスキート級で2年連続準優勝を達成。幸喜は60年のローマ五輪代表選考でライト級の最終選考に残りながら、代表の座を逃しており「こいつに引き継ごう」と全国トップレベルに駆け上がったまな弟子に夢を託した。新垣もスポーツの祭典に「絶対に出る」と心に決め、決心を師に語っていたという。

記念写真やジャケットなど、父・吉光さんの五輪にまつわる品々を手にする長男の新垣克彦さん=9月18日、那覇市鏡原町の自宅

 強豪の日大に進学すると新垣吉光は天性のスピードにさらに磨きを掛けた。ボクシング部の1学年先輩だった金城晃(71)=那覇市=は「スパーリングでパンチを返そうとしたら、もう目の前からいなくなってましたよ」と述懐する。大学2年時には、全日本アマチュア選手権ライトフライ級で頂点に立った。

 翌年も優勝し、3連覇の懸かる4年生で迎えた6月の同大会は、ミュンヘン五輪の代表最終選考を兼ねていた。決勝で九州代表の井上三利(福岡大)に対し、第1ラウンドで強烈な左右のフックを浴びせてダウンを奪取。盤石の試合運びで判定勝ちを収めた。最終選考には、後にプロボクサーとして兄弟そろって世界王者に輝く上原康恒(ライト級)、「フリッパー上原」こと晴治(フェザー級)も同じ日大勢として挑んだが、五輪の切符をつかんだのは新垣のみだった。

 代表決定直後、琉球新報の取材に答えた新垣の言葉にはメダルや沖縄の家族、仲間への強い思いがうかがえる。以下は72年6月13日付朝刊に掲載された記者とのやりとりだ。

 ―大会への抱負は。

 「日本代表として全力を挙げたい。ガツガツやりたい」

 ―家族の激励が励ましになったと聞いた。

 「オヤジ(正吉さん)は2年前に那覇空軍基地を解雇になり、それから失業です。『何も考えるな。ボクシング一筋でやれ』と励まされ、生活費は全て家から送金してもらっている。感謝してもしきれない」

 ―“沖縄トリオ”そろっての五輪代表が期待されたが、惜しかったですね。

 「上原兄弟が敗れた時は悔しかった。2人の分まで闘ってくるつもりです」

■初戦でついえた夢

 迎えた夢の舞台の初戦は72年の8月28日。青いユニホームに胸の日の丸がよく映えた。3ラウンド制を闘う相手は大柄のブルガリア選手だった。当時の映像を見ると、リーチを生かして的確に当ててくるパンチをかいくぐり、サウスポーの新垣は左フックで応戦。第2ラウンド早々にロープ際に追い詰める場面もあった。セコンドの後ろで観戦していた幸喜は、最終3ラウンド終了のゴングと同時に勝利を確信した。「今までやってきたいいボクシング。勝った」

 判定結果は残酷だった。メダル獲得の夢は初戦でついえた。悔し涙を浮かべた新垣は恩師の下に駆け寄り、声を絞り出した。「先生、ごめんなさい」

 まだ汗ばむ体を抱き締め「よく頑張ったよ」と伝えたことを幸喜はきのうのことのように覚えている。

■貫いた“拳闘愛”

 大学卒業後は帰郷し那覇市内でスポーツ店を営みながらアマの審判の道を歩み、高校生の合宿も自宅で受け入れた。現在、浦添高ボクシング部の監督を務める瀬良垣世堅(57)は、競技関係者らと那覇市鏡原町の新垣邸でよく酒を酌み交わした。「周囲にも笑いが絶えない人だった。どの選手にも気さくに助言していた」と懐かしそうに語る。しかし40代で横浜に出て働いていた頃に、酒量が増えて食が細くなり、痩せていった。

 そんな時、新垣に再び活力を与える存在がいた。長男の克彦(43)だ。学生の頃は家で深酒する父への反発からボクシングに嫌悪感すら抱いたが、痩せ細っていく父の姿を見て「自分がやったらまだ暴れてくれるかな」と19歳でグローブを取り、プロの道へ進んだ。次男・亘司(41)もプロを目指し始めると、新垣は2人を指導するようになった。強い“拳闘愛”が再燃した頃、肝臓と腎臓の病で入院。亘司がプロテストに合格した2週間後の2002年3月15日、51歳で帰らぬ人となった。

 克彦は今、奥武山町の沖宮で神職を務める。地鎮祭などで外に出た際に父の名前を出すと、今でも「あのボクシングの人ね」と喜ばれるという。克彦は、それがうれしくてたまらない。「まだ父ちゃんを覚えてるってすごい。誇りに思う」

 輝かしい舞台に立ってから47年、亡くなってから17年。“小さな巨人”が沖縄から初の五輪代表として県内スポーツ史に残した功績は色あせることはない。

 (敬称略)
 (長嶺真輝)