再建過程大事に 首里城焼失 識者座談会(上)


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座談会で意見交換する(左から)豊見山和行氏、中本清氏、宮城篤正氏と司会の島洋子琉球新報報道本部長=8日、那覇市泉崎の琉球新報社

 首里城火災を受けて琉球新報社は8日、那覇市泉崎の本社で、1992年復元時の首里城正殿設計委員会瓦類部会委員だった宮城篤正氏、92年復元の設計統括責任者だった中本清氏、琉球史を研究する琉球大教授の豊見山和行氏の3氏を招き識者座談会を開いた。火災による文化財や収蔵品の損失や防火の在り方、再建への課題や望ましい再建の形などについて専門的な見地から議論を交わした。(文中一部敬称略)

<受け止め>

 司会 首里城焼失の受け止めを。

 宮城篤正 当日の早朝、テレビのスイッチを入れると、猛火に包まれた首里城の映像が映った。一瞬自分の目を疑った。フランスのノートルダム寺院が燃えたときも大変だと思い知らされたが首里城は沖縄のシンボル。ぼうぜん自失で立ちすくむしかなかった。本当に現実なのかと疑った。

 中本清 当日午前4時頃、首里城近くの知人から「火の玉が屋根の上に飛んできている」と電話があった。テレビで見て事実と知った。がくぜんとしたが、建築屋の性(さが)なのか、しばらくするとどうしたら再建できるかと考えていた。復元事業に関わっていたので、そのプロセスを生かせれば再建に役立つと思ったら、悲しみは吹き飛んだ。

 豊見山和行 消火作業をしているのになかなか消えない、と驚いた。首里城が少しずつ復元される様子を見てきたが、一夜にして崩れたのは残念だった。学生も日常的に接していた正殿が無くなり、空虚感や喪失感を抱いたようだ。無くなって初めて文化の核になっていたと気付いたのだろう。復元される段階を見ている世代と、生まれてから首里城があるのが当たり前の世代の受け止め方は違うという気がした。

<再建に向けて>

 司会 再建へ向けた課題や望ましい形は。

 宮城 首里城復元の時、私は瓦類部会に所属していた。当時、与那原町の瓦職人の奥原崇実・崇典父子たちが吸水性や強度などを試行錯誤しながら首里城に使える瓦を作り上げた。現在、沖縄で作られている赤瓦は、首里城には使えない。

 再建を国が主導することには県民の間でも疑問はあると思う。国の予算も入れながら県主体で県民の心を一つにして、沖縄のアイデンティティーを大事に、琉球の文化を基にした技術で復元してほしい。

 中本 前回復元した時は、形が見えずに手探りの中で絵を描いた。今回、図面はある。材木は800立方メートル必要。燃えた後の撤去も含む準備が3年、工事が2年の計5年で再建できたらと思う。消防車も入れるように整備してはどうか。観光客の導線も見直しながら検討してほしい。

 再建のプロセスが観光にも子どもたちの教育にもつながる。沖縄の魅力を世界にアピールする機会だ。ハード面は国に予算を出してもらい、県民からの募金は、美術工芸やレプリカを作る技術などソフト面に使ってはどうか。

 豊見山 琉球王朝時代や戦後も再建を経た首里城だが、今回再建の機運が高まっているのは県民だ。歴史的に見て初めてではないか。その機運を大切にすべきだ。首里城研究所のような機関を設け、沖縄の有形、無形の文化財の研究を蓄積してはどうか。分野ごとではなく、全体として研究する総合文化研究所で復元に関連する工芸技術の継承を担う新しい仕組みがあってもいい。

 那覇市と県で連携し中城御殿や円覚寺も含め、一帯を歴史公園として整備してはどうか。首里城だけで閉じるのではなく、広げることで県民も観光客も散策の場所になる。

 単純な復元にとどまらず、沖縄の文化、歴史を見直す仕掛けがあっていい。再建のプロセスを大事にすべきだ。


<出席者>

宮城篤正氏(沖縄県立芸術大学元学長、1992年復元の首里城正殿設計委員会瓦類部会委員)

中本清氏(一級建築士、92年復元の設計統括責任者)

豊見山和行氏(琉球大教授、県文化財保護審議会委員)

司会 島洋子(琉球新報報道本部長)