文化再考の契機に 首里城焼失 識者座談会(下)


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 首里城火災を受けて琉球新報社は8日、那覇市泉崎の本社で、1992年復元時の首里城正殿設計委員会瓦類部会委員だった宮城篤正氏、92年復元の設計統括責任者だった中本清氏、琉球史を研究する琉球大教授の豊見山和行氏の3氏を招き識者座談会を開いた。火災による文化財や収蔵品の損失や防火の在り方、再建への課題や望ましい再建の形などについて専門的な見地から議論を交わした。

宮城篤正氏

<教訓>

 司会 今回の首城の火災による教訓は何か。

 中本 首里城は、1992年の復元当時の文化財保護行政基準に準拠している。かつドレンチャーや放水銃などを敷設し、外部からの延焼を防ぐため建物全体を水の膜で包む考えだった。スプリンクラーを付ける議論もあったが、誤作動して水浸しになった時、収蔵品が傷むことや内部空間に配管が露出するのも懸念された。さまざまな検討がなされて、できる限りのことはした。火災で焼失し残念だが、それを真摯(しんし)に学び、その結果をつないでいくことが、これからの再建に必要だ。

 豊見山 名古屋城を復元した時も、スプリンクラーを付けると調度品などが駄目になってしまうために、付けられなかったとの報道を見た。美術品や建物の内部をどう保存するかが大きな難問だ。首里城を再建する時に防火設備としてスプリンクラーを付けるのか、別の方法かなど考えないといけない点は教訓だ。

 中本 防災設備の精度は高くなっている。最近では炭酸ガスで消火したり燃えない木材の技術開発も進んでいる。首里城再建を機に、沖縄で防火・防災技術を確立し、県外や海外に技術移転ができたらと思う。ウチナーンチュは転んでもただでは起きない。

 宮城 文化財の保護は簡単ではない。大きな問題は、復元には時間や予算がかかり、技術も必要だということだ。手仕事や手技で取り組む技術は大切だ。失われた多くの資料も戻っては来ず、貴重だ。現在も残っている美術工芸品などを大切にしつつ、そのレプリカを作る事業も大変重要だ。

中本清氏

<収蔵品>

 司会 城内に収蔵されていて焼失した美術工芸品約500点の価値について。

 宮城 焼失した「雪中花鳥図」は中国の画家・章声が描いた作品。琉球を代表する画家の座間味庸昌(ざまみようしょう)が模写した。「雪中花鳥図」の所在は分からなかったが東京の尚家資料の中から見つかった。美ら島財団が収蔵したのだろう。尚育王の直筆の書や毛長禧(もうちょうき)の絵画も県指定有形文化財に相当するぐらい貴重だ。もし、これらが焼失していたら損失は大きい。

 豊見山 正殿の扁額(へんがく)「中山世土」は皇帝の直筆の形を各地から集めて組み合わせたもの。複製でも文化の再現という意味では価値はあると思う。首里城も50~100年後に第一級の文化財になる。(火災で)何が焼失したのかが分からない。焼失目録を早くつくってほしい。

 宮城 玉座・扁額も県指定無形文化財保持者の前田孝允さんが漆職人としての技術を精魂込めて注ぎ込んだ。建物内の調度品も大きな損失だ。

 中本 正殿は30数億円の工事費で、坪1千万円ぐらいに相当する。その価値は、技術を集約した美術品ともいえる。

豊見山和行氏

<存在意義>

 司会 首里城とはどのような存在だったか。

 豊見山 首里城はエリート文化の頂点だが、それを支えるため国頭から木材を切り出す人々の苦労もあった。両方を見る視点は大事だ。復元後の首里城は君主の居城というだけではなく、文化的発信の拠点でもあった。(今回の復元の)約30年で蓄積したものに、どう付加価値を付けていくのか。首里城は歴史や文化を体感できる場でもあった。

 中本 正殿の復元の際、風洞実験をした結果、城壁に当たった強風はうねりのある壁によって上がって風同士がぶつかり合い、勢力を落とすことが分かった。丘の上にある正殿が台風で瓦が飛ばない理由がそこにあった。何回か風害を繰り返す中、経験で城壁を直してきたのだと思う。今回の火災で炎は上空に燃え上がったように思えた。小禄辺りまで火の粉が飛んだそうだが、幸いにも近隣の住宅に延焼しなかったのは城の石垣が延焼を防いだのではないか。検証は必要だが、非常時になって初めて分かった。

 宮城 正殿と守礼門は県民の誇りであり、象徴であった。観光立県を目指す沖縄県の観光の目玉でもあった。それだけに焼失のショックは大きい。

島洋子 報道本部長

<出席者>

宮城篤正氏(沖縄県立芸術大学元学長、1992年復元の首里城正殿設計委員会瓦類部会委員)

中本清氏(一級建築士、92年復元の設計統括責任者)

豊見山和行氏(琉球大教授、県文化財保護審議会委員)

司会 島洋子(琉球新報報道本部長)