投げすぎた末に野手に転向 沖縄水産球児で元プロ野球選手の大野倫さん 投球制限「歴史的な一歩」 選手を守ることに必要なことは…


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 日本高野連が設置した投手の障害予防に関する有識者会議は、地方大会の試合日程に間隔を空け、3連戦を避けることを全国の高野連に呼び掛けている。夏季や秋季の県大会は、土日開催が主なため県高野連の又吉忠理事長は「特に問題はない」との見解を示し、球数についても日程を空けることで対応できるとの考えを示す。一方、春休み期間中に開催される春季大会は、連戦が続く可能性もあるため「日程の見直しを検討している最中だ」と対応する構えだ。

■歴史つくった投手は

 プロ野球投手の中には、春・夏の甲子園で500球以上を投じた選手もいた。

 「平成の怪物」と称される松坂大輔(元横浜高)は1998年の夏の甲子園で、2回戦から準々決勝までの5日間で506球を投じた。2010年、県勢初の春夏甲子園連覇を成し遂げた興南。夏の甲子園に登板した島袋洋奨(元ソフトバンク)は2回戦から決勝までの5試合(7日間)で726球を投げきった。制限がかかった場合、松坂は準々決勝、島袋は準決勝の途中で降板せざるを得ない。

■投げすぎの末に…

 90年と91年に夏の甲子園で準優勝した沖縄水産。91年に投手として登板した元プロ野球選手の大野倫さん(46)は、球数制限に「高校野球の歴史を変えた一歩だ」と有識者会議の決定を評価する。

 当時エースだった大野さんは、多い日は400球を投げ込んだ。90年の準優勝で、91年に優勝を期待する県民の思いも強かった。県予選前から右肘に激痛を感じたが、痛み止めを打って投げ続け、2年連続の準優勝に貢献した。一方、痛みに耐え投げ抜いた腕はぼろぼろだった。右肘は曲がったまま真っすぐにならず大会後、肘関節の剥離骨折が判明。「選手の体を優先するような時代じゃなかった」。その日を境に野手への転向を余儀なくされた。今も起床時に右肘が固まり動かない時がある。

■専門知識の必要性

自身が立ち上げたうるま東ボーイズで監督を務める元プロ野球選手の大野倫さん=10月、うるま市内

 大野さんは2010年、中学硬式野球チーム「うるま東ボーイズ」を設立し監督として携わる。誰かに頼るのでなく、いつでも継投できるように「入った当初からみんなが投げられるよう」と方針を持つ。練習は選手の体調を配慮し、1試合の球数を40~50球を基準に投げさせる。

 球数制限の問題提起に「根性論だけで野球をする時代は終わった。まずは大きな一歩だ」と有識者会議の答申を評価する。今夏の全国選手権岩手県大会で、高校生最速163キロを出した右腕・佐々木朗希=大船渡=が、右腕の不調を理由に決勝戦に登板できず監督に賛否が分かれたことは記憶に新しい。大野さんは、その判断を評価した上で「統一基準があれば非難も受けず、選手も納得がいく。選手生命も守れる」と全国統一基準の設定を求める。過度な投げすぎもよくないが経験不足もためにならないと、指導者にも投球理論や野球理論、体調管理などの専門知識が要されると訴える。勝ち負けが決まる、勝負ごとだからこそ「感覚や経験則だけに頼っていては、いつまでも野球界は変わらない」と球界の変革を望んでいる。
 (上江洲真梨子)