「こんな選手見たことない」 柔軟性、足腰、瞬発力…全てが規格外 ロス・ソウル五輪重量挙げ代表・平良朝治さん(58) 県勢初の入賞果たす うちなーオリンピアンの軌跡(3)


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1984年のロサンゼルス五輪開会式に着用したジャケットを手にインタビューに答える平良朝治さん=9月17日、那覇市泉崎の県立図書館(田中芳撮影)

 プラットホームに立ち、悠々とバーベルを上げる平良朝治(58)=当時23歳=の姿に、県民はテレビにくぎ付けになった。1984年8月1日、米・ロサンゼルス五輪の重量挙げ会場。67・5キロ級の競技が始まり平良の名がコールされると、故郷の具志頭村(現・八重瀬町)から駆け付けた応援団は客席に「チバリヨー平良君」の横断幕を掲げて声援を送った。忘れられない一日が始まった。

■天賦の才

 具志頭中3年の頃、先に重量挙げをしていた一つ上の兄・朝順の学校行事で糸満高を訪ねた。同校の大湾朝民監督(73)に勧められ、試しにバーベルを上げた時だ。大湾はシャフトを持ち上げる平良の動作に驚いた。重みを支えるのに必要な肩やひじの柔軟性、足腰の強さ、持ち上げる時の瞬発力、全てが規格外だった。「こんな選手見たことない。きっと全国、世界を狙える」。声を掛けずにはいられなかった。

 大湾は「バーベルを持ち上げた瞬間のすり足と重心の移動の仕方は天性のものだった」と、いまでも宝物を見詰めるようにして振り返る。

 当時、ウエイトリフティング部のなかった南部工に進学したが、糸満高までバスで通い、大湾の指導を仰ぐことになった。2年からはハンドボール部顧問だった豊見本朝弘に頼み込んで創部し、豊見本が購入してくれた用具で黙々と練習に励んだ。総体や国体の入賞記録を調べ出し「次の大会の記録を想像して、これぐらいまで挙げたら優勝できる」と常に全国トップを意識して鍛えた。

 77年の青森国体で優勝すると78年は総体、国体の2冠を達成し、一躍重量挙げ界のホープへと駆け上がった。

重量挙げ67・5キロ級 スナッチ132・5キロ、ジャーク172・5キロで自己最高を出し客席の応援団に向かって喜ぶ平良朝治=1984年8月1日、米・ロサンゼルス

■敵なし

 法政大に進むと、60キロ級、67・5キロ級と階級を上げた。1、2年はフォームの改良や腰の負傷で記録は伸びなかったが、3、4年は全日本学生選手権を連覇、4年次は全日本選手権優勝など「もう敵なしだった」。卒業後は沖縄に戻り、県職員として働きながら奥武山体育館を拠点に練習に励んで五輪出場をうかがった。84年5月の最終選考でトータル300キロ(スナッチ130キロ、ジャーク170キロ)の自己最高で県記録をも更新し、堂々と五輪切符を手にした。

 運命の84年8月1日。苦手とされたスナッチ1本目は125キロ、2本目の130キロも難なく上げた。3本目は自己ベストから2・5キロ増の132・5キロ。

 大きく深呼吸を3回。リズムを付けると、勢いを付けて軽々と頭上に上げた。思わず笑みが漏れたが「まだまだ最後まで気は抜けなかった」。得意のジャークは165キロ、170キロとスピードに乗り問題なく掲げ、挑んだ3本目は上げれば自己ベストの172・5キロ。クリーンで下半身が少しぐらつくが、ひじを中に入れてすぐに修正すると、あとは圧巻の差しで成功させた。下ろした瞬間、跳び上がって喜びを表現した。トータルは当時日本記録タイの305キロ、スナッチ、ジャークの自己最高をそれぞれ2・5キロも更新して5位。県勢として初めての五輪での入賞だった。テレビで観戦した父・朝喜さんは「朝治よくやってくれた。心から拍手を送りたい」と大舞台での息子の活躍に誇らしげだった。

■後輩に思い託す

 ロス五輪後、全日本選手権や国体で連覇を成し遂げ、88年ソウル五輪に連続出場する。2大会連続は県勢初。あと一歩で逃した表彰台へ周囲の期待も増すが、腰に痛みを抱え万全ではなかった。結果はトータル297・5キロ(スナッチ127・5キロ、ジャーク170キロ)の9位だった。この時27歳。「腰もひざの痛みもだましだましやっていたが体はもう限界だった」。葛藤を抱えながらも奥武山で練習を続けていた時、トレーニングに来ていた陸上投てきの吉本久也(当時那覇西高)や比嘉敏彦(当時興南高)ら後にトップ選手に成長する逸材に出会い、現役生活を終えることを決心した。

 現在、県立図書館長を務める平良は指導歴を振り返り「技術指導にはあまり関われなかった」と控え目だが、2003年から県ウエイトリフティング協会理事長を13年間、16年からは副会長を務める。メダル獲得はなしえなかったが、五輪出場で「沖縄の重量挙げの普及にいくばくかは貢献できたかな」。20年東京の表彰台でほほえむ後進の姿を思い描いている。(敬称略)

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 (上江洲真梨子)