大けが乗り越えつかむ 世界実感、「人生変えた」 ソウル五輪男子ハンドボール代表 荷川取義浩さん うちなーオリンピアンの軌跡(6)


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ソウル五輪・男子ハンドボール日本代表の荷川取義浩さん。当時使用したジャージを今も大切に保管している=9月、金沢市

 身長185センチ、体重90キロ超の体格からは想像できない素早い動きでコートを駆け回る。攻守で見せるバックプレーヤーとのセットプレーは当時、国内実業団リーグでひときわ光彩を放っていた。1988年のソウル五輪・男子ハンドボール日本代表の荷川取義浩(57)=当時26歳、石川県在=は、県勢で初めてハンドボール日本代表に選ばれた。類いまれなる身体能力で攻守のキーポジションとなるポストプレーヤーとして活躍した。「オリンピックは人生を変えてくれた」。その大舞台に次は指導者として臨む。

■夢見た世界

 水泳部に所属していた安岡中3年の時、同級生と出たハンドボールの県大会で準優勝し、九州大会に出場したのがきっかけで競技にのめり込んだ。小学校では野球部で、長い競技経験があったわけではないが「全国や世界への憧れがあった。ハンドボールならそこに行ける」との思いに突き動かされた。

 浦添高に進学すると、中学時の身長約150センチが180センチ台まで伸びた。高身長とすばしっこさを生かし、右のバックプレーヤーとして活躍する。ロングシュートが自慢の点取り屋としてチームの攻撃の要となっていた。

 愛知県の中部工業大(現中部大)に進学後、全日本ジュニア代表に選ばれるなど同世代のトップ選手として知られるようになり、85年にハンドボールの名門・湧永製薬に入社。日本代表への一歩を歩み始める。

1988年、日本リーグの本田技研鈴鹿戦でプレーする湧永製薬の荷川取義浩。88年の第12回リーグでチームは4度目の優勝を飾った。写真は当時の紙面から

■不屈の闘志

 入社はソウル五輪まで残り3年という時期。権勢を誇る湧永を選んだことは「日の丸を背負って世界と闘う」という決意の表れでもあった。メンバー約20人のほとんどが代表候補や元代表というトップチーム。経験豊富な先輩らに囲まれ、理論に裏打ちされた技術や戦略の基礎をたたき込まれた。バックコートの同ポジションにはのちに1試合個人最多得点の日本リーグレコードを刻むことになる名選手の玉村健次がいた。出場機会が限られることから荷川取はポストに転身。国内でまだまだ大型ポストが珍しい時代だったが「あのポジション変更があったから日本代表に選出された」と振り返る。

 浦添高の一つ先輩で、大崎電気でリーグオールスターにも選出された東江正作(58)は「上を打たせ、屈強な体でブロックするなど自分の役割を分かっていた。また、当時一流のバックプレーヤーぞろいの湧永に入ったことで彼の存在が生きた」と荷川取の現役時代を振り返る。

 入社直後の85年鳥取国体で、試合中に左膝の前十字靱帯(じんたい)断裂の大けがを負う。「再起できるかどうかも分からない」とも言われ、5カ月の長期入院を強いられた。焦る気持ちもあったが「世界の強い選手と闘ってみたい」という思いで地道にリハビリすること1年間。一線に復帰しても痛みを抱えながらの連戦だったが耐え、問題なく思い通りに動けるようになったのは88年のソウル五輪の直前だった。同年6月に日本代表が発表されると「復帰できるかどうかというけがだったので、代表内定はすごくうれしかった」と目を細める。

 夢にまで見たソウルの地。予選リーグ初戦は、優勝候補の前評判のある東ドイツ。荷川取の出場はなかったが、平均身長で約4センチ上回る相手からリードを奪うなど善戦。ただ、後半はパワープレーに押され、18―25で敗れた。荷川取が出場したハンガリー戦も19―22と惜敗。国内では他を圧倒する荷川取のパワープレーも世界には歯が立たなかった。上半身のパワーはもちろん「ブロックしても荒技で突っ込んでくる。逆にブロックで止めようとすると、パスを通される」と強豪国の技術は抜きんでていた。最終成績は11位。世界との壁を実感した。

■女子ハンドけん引

 ソウル後もプレーを続けていたが、93年、チーム体制の変更を節目に現役を退いた。指導者として声を掛けられていた女子・北國銀行(石川県)のコーチに就く。翌94年に監督に昇格すると日本リーグ、国体、社会人大会の3冠を3季連続でもたらすなど数々のタイトルを総なめにし、現在も指揮官として同チームを率いる。チーム内には代表候補、代表経験者も多く在籍する。ことしは6度目の最優秀監督賞を受賞するなど、指導者として国内女子ハンドをけん引する。

 2020年の東京五輪は開催国枠で、女子は76年のモントリオール大会以来44年ぶりに出場する。オリンピック選手となることは大舞台で戦う経験を積むことだけではなく、スポーツ界での確固たる地位につながり、何よりも自らの誇りとなる。現役選手らに対し「オリンピックを経験してほしい。出場すると人生ががらっと変わる」と願う。競技者から指導者へと立場違えど、五輪へのたぎるような思いが色あせることはない。指導した選手や県勢の後輩らがオリンピアンとなる日を夢見て、今日もコートでげきを飛ばす。

 (敬称略)
 (上江洲真梨子)