県勢唯一個人種目で銅 自信の平行棒、会心演技 バルセロナ五輪男子体操代表 松永政行さん うちなーオリンピアンの軌跡(8)


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バルセロナ五輪、男子体操団体と平行棒個人で銅メダルを取った松永政行さん=9月、大阪府泉大津市の羽衣体操クラブ

 “体操王国ニッポン”が意地で手にした銅メダルだった。1992年のスペイン・バルセロナ五輪。男子体操で日本代表の松永政行(49)=興南高―日本大出―河合楽器―明星中高教諭、大阪府在=は吹っ切れた表情で平行に並ぶ二本のバーを見上げていた。「いつも通りいけばいい」と言い聞かせ、平常心を貫いた姿勢が銅メダルへのレールへと代表を導いた。

■胸に輝くメダル

 団体で88年のソウル五輪銅メダルに続く表彰台を狙う男子は、石川市(現うるま市)出身の知念孝を主将に据え、2大会連続出場の西川大輔、池谷幸雄、佐藤寿治、初出場となる相原豊や畠田好章、松永の7人で挑んだ。

 団体総合規定演技1組目、日本勢トップバッターの松永はあん馬でいきなり落下。今まで一度も落ちたことのない部分だった。「俺の五輪は終わった」と落胆したが「いい意味で吹っ切れた」。ここからが松永の持ち味でもある堅実な技が光る。あん馬以降はノーミスでつなぎ、個人総合56・800点。続く西川や相原の追い上げもあり団体はEUN(現ロシア)、中国に続く3位に付けた。

 “練習の虫”とも言われた松永は得意の平行棒に自信があった。「ノーミスでいけば誰にも負けない」。

 続く自由演技は松永が得意の平行棒で9・775点を出したほか、池谷の床などで一時は2位の中国に迫る追い上げを見せたが、惜しくも届かなかった。それでもロサンゼルス、ソウルに続く3大会連続での団体メダル獲得に日本中が湧いた。日の丸が入ったそろいのジャージーに、首から下げたブロンズがよく映えた。表彰台に登った選手は何度もガッツポーズを掲げ、会場中に手を振った。

 松永、知念の両選手を興南高で指導してきた同校の知念義雄監督(現県体操協会会長)はインターハイの出張先、宮崎市内で寝る間を惜しんでテレビにかじりついていた。中継に映る教え子の姿は「とても誇らしかった。親子ほどずっと一緒にいたから見ているこっちがドキドキした」と2人の一挙手一投足を食い入るように見守っていた。

バルセロナ五輪・男子体操種目別決勝 平行棒で9.800点をマークし、銅メダルを獲得した松永政行=1992年8月2日、スペイン・サンジョルディ体育館

■2個目の銅

 さらに松永は種目別平行棒の決勝(規定9・575点、自由9・775点=8位通過)に進出。決勝の演技順は選手9人のうち6番目。先に演技を終えた5人は得点が伸びなかった。首位に立てばメダルは確定だった。「欲張ると失敗する」。平常心をと言い聞かせるが、両足は小さく震えていた。しかし、本番に入ると158センチの小柄な体から繰り出される回転技やひねり技、宙でぴたっと止まる開脚は見る者を引きつけた。着地は床に吸い付けられるように、両足で踏ん張り最高のできだった。「これまでで一番いい」。

 演技を終え会場中から大きな拍手が湧き、松永も自然と右手で小さくガッツポーズ。笑みもこぼれた。メダルを確信した瞬間だった。9・800点でトップに立ち3位以内が確定。続く中国、EUNの選手には及ばなかったが「トップに立った瞬間はメダルが取れた、と喜びしかなかった」と知念らと取った団体3位に次いで、個人でも銅メダル獲得の歓喜に舞った。五輪競技の個人でメダルを獲得した県勢はいまだただ一人だ。

男子体操団体銅メダリストの(左から)松永政行と知念孝を紹介する知念義雄氏(右端)=1992年9月16日、沖縄県内(提供)

■沖縄で才能を開花

 「知念先生が選手としての土台をつくってくれた」と語るように、原点は高校時代にあるという。大阪府出身の松永だが、体操の腕を磨くため大阪貿易学院高(現開明高)から1年生の12月に編入の形で興南高へ。当時、大阪には屈指の強豪・清風高に、後に代表として共に世界で戦う池谷、西川がいた。2人の才能は群を抜いていた。地区大会は「いつも池谷、西川の次だった」。貿易学院高の顧問が興南の知念監督の知人で、勧めもあって編入の話が持ち上がった。地区代表になり日本一を取りたいとの思いを募らせていた松永にとって「毎日体操ができるなら」と、それは願ってもない誘いだった。

 知念は自宅で松永を預かり、朝、昼、晩と手作りの体操器具で練習に当たらせた。編入当初、つり輪が苦手だった松永に、通常数十秒のつり輪の倒立を約1分間課すなど、徹底して鍛え、体幹や筋力をつけさせた。日本選手はつり輪が比較的苦手とされるが、松永のそれには堅実な演技として定評があった。64年の東京大会個人金メダリストでバルセロナの会場にいた遠藤幸雄は松永のつり輪を「小技だがピリっと味がある」と評した。

 高3年の海邦国体はエース・松永を中心に、興南が団体で清風を下し、体操競技で県勢初の優勝をもたらした。卒業後は日本大、河合楽器と体操のエリートコースを突き進む。89、91年と世界選手権の代表に選ばれ、世界での経験を積んだ。松永を指導した知念は「練習の虫だった。柔軟性、跳躍力は天性の才能がある。あのまま関西にいたら埋もれてしまっていたかもしれない」と才能の開花に立ち会えたことを喜ぶ。

■選手の育成へ

 「もう少し強く踏み込んで入ってみ?」。現在、松永は明星中高で教諭を務めながら、終業後はボランティアで大阪・泉大津市内の体操クラブで指導する。「体操に恩返しができたら」と競技を引退後、教員免許を取得した。松永の周りには「いつも良き指導者がいた」と知念からの指導を思い出しながら、将来日の丸を背負うであろう選手にバトンを託すように、きょうも指導に励んでいる。

 (敬称略)
 (上江洲真梨子)