全国で絶賛されたスパイク 「1日の積み重ねの先に五輪の舞台」 アトランタ五輪バレー女子代表・星野賀代さん うちなーオリンピアンの軌跡(10)


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現役時代を振り返る木村(旧姓・星野)賀代=9月27日、千葉県勝浦市

 星野(現・木村)賀代(47)=千葉県在住=は中部商高で不動のレフトアタッカーとして頭角を現すと、実業団のトップ選手に交じって全日本メンバーに選ばれた。その後、1996年のアトランタ五輪への出場を果たした。五輪後は強豪NECをけん引し、20代後半で第一線を退く。「もうやりきった」。二度とボールには触らないとまで誓った。その後、思わぬ形で競技に再び携わることになる。人生にも多くの実りをもたらしてくれたバレーボール。五輪の経験も含め「バレーなしにはここにいなかった」。かけがえのない経験を与えてくれたバレーボールを楽しむ生活を送っている。

■沖縄の星

 宮古島で生まれ、宜野湾市で育った。大山小4年生の時、ママさんバレーをしていた母の影響で競技を始めた。双子の妹の須美と高め合い、普天間中では1年時からレギュラーに。「負ける気がしなかった」。中学3年で全日本ジュニアの強化合宿に参加。中部商高では県内大会負けなしの圧倒的な強さを誇った。全国総体では女子県勢初の8強入りも果たした。

 3年時に全日本メンバーに選出。沖縄から女子の代表入りは初だった。177センチとさほど高さはないものの、3メートル超えの最高到達点から打ち込むスパイクやバックアタックを武器に、代表では大林素子ら実業団選手の中にあっても存在感を示した。当時の女子バレーボールは一般の人気は高いものの、五輪出場が危ぶまれることもあった。沖縄の新星は「女子代表再建の救世主」とも目された。

 中部商監督だった宇地原徳仁は「すさまじかったのはスパイクの音。相当なパンチ力があるということで、その威力は全国でも絶賛された」と振り返る。

■試練の先に

 筑波大への進学が決まっていたが、実業団への憧れもあった。「通用するか悩むくらいならやったほうがいい」。卒業と同時にNECに入ると猛練習に明け暮れた。午前6時から朝練が始まり、食事以外は午前練、午後練に、夜もボールを追った。先輩の厳しい指導の下、貧血になりながらランニングやウエイトトレーニングに必死で食らいついていたこともあった。

 苦しい時はいつも恩師の宇地原の顔が思い浮かんだ。「先生の顔に泥をぬるわけにはいかない。沖縄から出てきて恥ずかしくないように」と耐え抜いた。

 96年のアトランタ大会に向け、同年に12人の日本代表に選ばれた。最終予選で勝ち上がり、五輪切符を手にする。星野は、五輪を目指す意識は特になかったという。「1日、1カ月、1年間、頑張って積み重ねて練習してきた結果、その先に五輪の舞台にたどり着いた」と振り返る。

 本番はスタメンではなくポイントごとの起用でコートに立った。2戦目のウクライナにストレート勝ちした以外は初戦の韓国戦を含めて4試合で黒星を喫し、予選リーグ敗退。64年の金メダル以降、初めて決勝トーナメント進出を逃した大会だった。コートでの記憶はほぼない。しかし、今でも当時コーチに言われた言葉は胸の中にある。「神様はいる。頑張れば頑張った分自分に返ってくる」

アトランタ五輪の大会地入りした日本代表メンバーら。中央で帽子をかぶっているのが星野=1996年7月19日

■広がる縁

 五輪後は96年の第3回Vリーグで優勝。97年のシーズンからは主将に就き、これ以降のNEC黄金期の土台を支える。99年の第6回は18試合で1度も負けなしの完全優勝も果たした。ただ、シドニー五輪に向けた代表選考からは漏れた。NECでは後輩も育ち、心身ともにやりきったとの充実感があった。「もう二度とボールを触らない」と心に決め、00―01シーズンを最後に28歳で引退した。

 引退後はNECで事務職を続けていたが「今動かなかったらずっとこのままだ」と変化を求めて退職。29歳で単身オーストラリアに語学留学した。

 転機はホームステイ先で友人に誘われ、久しぶりに遊び心でバレーボールをした時だった。ボールを拾い、上げて打つ。そんな単純な動きに再び競技の面白さを感じるようになった。疲労感や気力の低下を感じて引退したときのマイナスのイメージは消えていた。

 その後も遊び程度に体を動かしていると、豪州ナショナルチーム関係者に巡り会う。経歴が伝わると、トップチーム強化に力を貸してほしいとの話が進んだ。

 豪州女子代表のアシスタントコーチに就いたのは間もないことだった。手本として実際にプレーして見せると、戻ってくる現役時代の感覚が刺激的だった。培った技術を若手中心の豪州代表に余すことなく伝えた。言葉は不十分でもプレーで通じ合えた。功績が評価され、スポーツ選手に特別に与えられる永住権も手に入れた。

 その後、結婚を機に帰国。現在もバレーボールはやめていない。月に数回、男子チームに混じってバレーボールを楽しむ傍ら、咲良さん(10)と凛咲さん(8)の2人の娘を育てている。子育ての日々、アトランタでコーチにかけられた「頑張った分、返ってくる」との言葉がよみがえってくることがある。「娘たちにも一生懸命に熱くなれる何かを見つけてほしい」。母として願っている。

 (敬称略)
 (古川峻)