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健康づくりに沖縄の知恵、次世代へ 琉球料理研究家の山本彩香さん 藤井誠二の沖縄ひと物語(11)


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枝豆の豆腐ようあえを調理中の山本彩香さん=11月、豊見城市内の自宅(ジャン松元撮影)

久しぶりにお電話すると、「私も数えで84歳になったよ。でもね、沖縄では歳をとったとか、老い先短いとは言わなくて、見てきた世の中が長い、というんです。沖縄の言葉で、“ンーチャル ユ ドゥ ナゲーサル”といいます」と、山本彩香さんは張りのある声で話しだした。

「正月を食って歳を重ねるんです。正月を迎えてとヤマトでは言いますが、“食って”とは正月料理を食べてということ。むかしは正月とお盆しか豚をつぶしたりしていいものを食べられなかったから。沖縄では本来、誕生日で歳を数えなかったんです」

今年(2019年)2月に「全税共(全国税理士共栄会)」の「人と地域の文化賞」を受賞した。懇意にしている放送作家の小山薫堂さんの推薦だ。授賞式のときに「ハジメティ ウイチイ ウナカビラ ヤマモトアヤカ ヤイビーン~」と沖縄の言葉で挨拶(あいさつ)した。「はじめてお目にかかります。(中略)沖縄の先達が残してくださった琉球料理の数々を今の若い人たちへ、伝えて残していきたいと思っております」―まさに山本さんの人生をそのまま体現したような言葉だ。

機内食を考案

那覇の久米にあったお店「琉球料理乃山本彩香」を惜しまれながら閉めたのが77歳のとき。いろいろな事情があったが、なかなか後進も育たず、無念の閉店だった。ぼくは何度かおじゃまをしたことがあって、山本さんの豆腐ようやラフティー、ミヌダル等をいただき、胃袋を掴(つか)まれるとはこういうことかと思った。山本さんが客席をまわって料理の説明をしていたのを覚えている。閉店してからも山本さんの熱意は変わらず、琉球料理を教えてきた。今年はJAL国内線の機内食をプロデュースする。

「今は、マチヤグワーをやりたい。よろずやというような意味だけど、今は沖縄からほとんどなくなった。それを復活させようというわけではなくて、豆腐ようとか、しゃこ貝の豆腐よう和えとか、にんにくの黒糖づけとかの私が作った保存食を出したいと思ってる。沖縄には保存食の種類がたくさんあるんです」

それはいいですねとぼくが相槌(あいづち)を打つと、「沖縄は梅と昆布もとれないのに、梅と昆布と鰹節(かつおぶし)は、消費量がすごく多かった。沖縄はサンピン茶をチュカー(急須)に入れて、梅をなめる。甘味も酸っぱさも、塩分もある。冷房はないけど、熱中症は聞いたことがありません。それもそのマチヤグワーで飲める。入れるのは5人ぐらいまでにして、持って帰れる保存食は冷蔵庫に置いてあるわけ」と楽しそうだ。

ニチニーマシという言い方を知ってる? と山本さんがぼくに聞いてきた。「似て非なるものということばがヤマトにはあるけど、そういう意味じゃなくて、豆腐ようは、中国の腐乳を参考にしたのはまちがいないけど沖縄の独立した食べ物。似ているが、もっといいという意味。じつにいい言葉だと思いませんか」。山本さんの琉球料理に対する変わらないリスペクトがうかがえる。

二足のわらじ

愛車で出かける山本彩香さん。日々、若々しく行動的=11月、豊見城市内(ジャン松元撮影)

山本さんは1935年に生まれた。育ての崎間カマトさんは生みの母の姉にあたる。カマトさんは辻で料理の腕がすこぶる上手な芸妓(尾類(じゅり))で、彼女のもとで2歳から育てられ、料理はカマトさん仕込みである。5歳で琉球舞踊を始めた。

公式のプロフィールにはあまり書かれていないが、山本さんは戦時中はカマトさんと共に今帰仁で暮らし、そこの国民学校に入学している。また、カマトさんの見合い結婚に伴い、妻が病死していた相手の戸籍に登録した。沖縄戦で戸籍が消失していたからである。が、東京で自身の戸籍を発見。「山本」姓とは生みの母の夫の姓である。5歳から始めた琉球舞踊は新人賞等をとるなど50年以上も打ち込んできた。師匠は琉球舞踊界の重鎮の故・島袋光裕さん。山本さんは踊りを磨き続け、生活の糧にしてきた。途中で、「歩」と「穂ばな」という店もオープンさせ、料理家と二足の草鞋(わらじ)を履くことになる。

地元の食を残す

1998年に発刊された山本さんの著書『てぃーあんだ』の序文に、作家の大城立裕さんが「チャンプルー」の語源はインドネシア語で「かきまぜる」という意味で正確には「チャンプール」と発音すると書いている。大城さんが山本さんにこの話をしたところ、沖縄では「チャンプールーだ」と山本さんは譲らなかったという。

「それは混ぜるという意味ですが、言葉は大事にしたいのです。まず、豆腐を入れないとチャンプールーとは言わない。炒めるだけでも調理法の呼び方はチャンプールー、イリチー、タシヤーの3種類があります。クーブチャンプールーとは言わなくて、クーブイリチーですよね。ポークランチョンミートを混ぜるのは戦後です。沖縄にはいま、イタリアンやフレンチはあるのに、なんで地元のものを残せないんだろう。むかしの母や祖母は料理人なのに、それから学んでない。“クチサーニ ウビレー”とカマトは言ってました。口で覚えなさいと」

いまは少人数で月1回開いている料理教室には50~60代の人たちが参加する。むかしの味を知っている世代が山本さんの味と技を習いにくる。

「私が習いに来る人の手先の動きを見たり、教えるのは5~6人から10人が限度です。むかしの味を知っている世代だから、そういう人たちに続けてほしいなと思う。同時に私はみなさんに考えさせる。たとえば沖縄の料理は裏ごしをしません。それは繊維質まで摂って健康なからだをつくる沖縄の知恵ですが、そういったことの歴史や理由を私は説明したいからです」

山本さんのシャコ貝の豆腐よう和えをいただいた。嗚呼(ああ)、至福なり。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

やまもと・あやか​

1935年、沖縄出身の母と東京の父が結婚、4番目の子どもとして東京に生まれる。崎間カマトさんのもとに2歳のときに養子になる。65年にスタンドバー「歩」を開店、85年「穂ばな」開店。98年に『てぃーあんだ』発刊。99~2012年まで「琉球料理乃山本彩香」を運営した。来年1月に「文藝春秋」から『ニチニーマシ』という料理エッセイ集が出版される。

ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。