100メートル8位入賞の快挙 シドニーパラリンピックT42男子陸上代表 古城暁博さん 日本人初の立位義足選手 うちなーオリンピアンの軌跡(13)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
スポーツを通して「障がい者と健常者をつないでいきたい」と語る古城暁博=11月28日、東京都港区

 その14秒間は、沖縄、そして日本の障がい者スポーツにとって歴史的な一瞬だった。2000年シドニーパラリンピック片足大腿(だいたい)切断T42クラスの男子陸上100メートルに出場し、8位入賞を飾った古城暁博(36)=千葉県在住。女子車いすバスケの友利博美(49)と共に県勢初のパラリンピアンとなっただけでなく、立位の義足アスリートがパラリンピックに挑むのは日本人史上初という快挙だった。

■「生まれつき」の義足

 宮古島市平良出身。幼稚園児の頃、登園中に交通事故に遭って右足の膝から下を切断し、5歳にして義足生活となった。「ショックはなかった。小さい時だからその前の記憶がほとんどなく、元々足があった感覚がない。義足は生まれつきのような感じ」。あっけらかんと当時を振り返る。

 宮古島市立南小3年の時、友達の誘いを受け、南SCでサッカーを始めた。ボールを蹴られるのは左足だけ。それでも「単純にサッカーが楽しかった」。平良中では徐々に周囲のスピードや体力に付いていけなくなったが、義足のせいにする気持ちは毛頭ない。「ただうまくなりたい」。健常者の中で当たり前にスポーツに熱中する姿勢が、自然と強じんな体やバランス感覚を養っていった。

■日本記録連発

 中学卒業と同時に家族で千葉県に転居し、県立松戸矢切高で再びサッカー部に入部した。同時期に、東京の障がい者スポーツセンターで働いていた祖父の兄に同センターの荒井秀樹所長(当時)を紹介され、障がい者スポーツのスキーと陸上を始めた。

 それから間もない1998年5月、関東の障がい者陸上大会に“すい星”のごとく登場し、片足大腿切断クラスT42の100メートルで17秒03の日本記録(当時)をマーク。使用したのは生活用の義足だった。幼少期から当たり前に健常者とスポーツをして鍛えたバランス感覚は、「なぜそんな動きができるのか」と周囲に衝撃を与えたという。

 部活でサッカーを続けながら大会に出続け、100、200メートルで日本記録を連発。競技用義足に変えてからはさらに速度が増し、2年後には100メートルで13秒84、200メートルでは28秒76まで日本記録を伸ばした。両記録は96年アトランタパラリンピックのメダル圏内だったため、高校3年の17歳だった2000年、シドニー大会への挑戦権を獲得。国内障がい者スポーツ界の“レジェンド”と称される男子走り高跳びの鈴木徹と共に、日本人の義足アスリートとして初めてパラリンピック出場を決めた。

男子100メートル予選。必死の形相で会心の走りを披露する古城暁博=2000年10月23日、オーストラリア・シドニーの五輪スタジアム

■骨折も入賞

 周囲からメダルの期待が高まる中、不運が襲う。大会1カ月前、学校でサッカーをしている時、左足のくるぶし上を疲労骨折。出場断念と伝えられた。「なんとか出て、ベストを尽くしたい」。スポーツ専門医に相談し「走れる状態まではもっていける」と言われ、競技を100メートルに絞って強行出場を決めた。ただ練習はできない。久しぶりに義足を着けて走ったのは、現地入り後、本番の4、5日前だった。3割程度の力で約40メートルを走ったが、痛みは残っていた。

 迎えた予選当日、2000年10月23日。事態が好転する。「トレーナーが慎重にケアをしてくれた」と、その日は朝から痛みが和らいでいた。さらにテーピングと痛み止めの注射で処置し、レースへ向かった。予選は7人。ほぼ万全の状態で号砲を待った。「スタートがめちゃくちゃ良かった」と頭一つ抜け出し、60メートルまでトップで力走。4位で決勝進出を決めた。記録はベストに近い14秒04。「久しぶりの全力疾走で、奇跡のタイムだった」

 翌日の決勝当日は、注射を打っても痛みが引かなかった。ファイナリストは8人。スタートと同時に最後尾となり、不本意な14秒44。ゴール後は痛みで顔をゆがめた。「メダルよりも、しっかり走れなかったことが悔しかった」と言うが、初のパラリンピックで8位入賞。「世界の舞台を経験して、メンタルが強くなれた」と前を向いた。

■サッカーでも世界へ

 4年後のアテネも視野にあったが、サッカーへの情熱がそれを上回った。「サッカーのおかげで多くの仲間ができた。小さい頃から周囲に付いていくのがやっとだったけど、どうしたら対等に戦えるか考えるのが楽しかった」と、順天堂大ではサッカーに専念した。

 29歳の時に下肢切断などで障がいのある選手がつえを使い、片足でプレーするアンプティサッカーに出合う。サッカーで培った戦術への高い理解力と180センチの体格を武器に一気に頭角を現した。14年W杯に出場し、日本初のW杯白星に貢献。18年には主将として2大会連続の決勝トーナメント進出をけん引した。

 今年4月から千葉県のサッカークラブチームで監督を始めた古城。障がい者と健常者のどちらのカテゴリでもスポーツに親しんできたからこそ、感じることがある。「障がい者スポーツは存在が独立化してきている。うまくなりたいなら、もっと健常者の社会の中に入っていかないといけない」。健常者の中で自らを鍛え上げ、二つの競技で世界の舞台を踏んだ経験を糧に、障がいの有無という壁を取っ払う決意だ。

 (敬称略)
 (長嶺真輝)