“自分流”貫いて入賞 北京大会女子重量挙げ代表 大城みさきさん(35) 師と二人三脚、県内で磨き うちなーオリンピアンの軌跡(15)


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女子48キロ級 歯を食いしばり、ジャーク1回目で92キロを成功させる大城みさき=2008年8月9日、北京航空宇宙大体育館

 競技を深く、より深くと突き詰めていく意思の強さが、世界最高峰の舞台へと押し上げた。2008年の北京五輪女子重量挙げ48キロ級で8位入賞(のちに6位に繰り上がり)を果たした大城みさき(35)=那覇市出身。身長145センチの小さな体で恩師の比嘉敏彦(48)=現本部高監督=と沖縄を拠点に“自分流”を磨き抜いた末、たどり着いた境地だった。

■恩師との出会い

 那覇市立仲井真小時代からバスケットボールを続けていたが、母・ゆう子さんが営む居酒屋で人手が必要となり、南風原高2年の1学期、手伝うために部活を辞めた。母子家庭でやむを得ない判断だったが、体育コースで、学校の方針で部活動は続けないといけない。声を掛けてくれたのが当時のクラス担任で、重量挙げで高校、大学で全国王者となった比嘉だった。

 バスケをする姿を見て、瞬発力や強い闘争心を高く買っていた比嘉。「だまされたと思ってやってみろ」「絶対日本一にして、オリンピック行けるから」。猛烈な勧誘が始まった。大城からすると、見たことも聞いたこともない競技。初めは断ったが、根負けした。

 初めてバーベルに触った時、腕力には自信があったが上がらない。「力じゃないんだ。面白い」。すぐにのめりこんだ。その年の県選手権で県新を樹立。翌年3月の全国選抜では頂点に。1週間で2・5キロずつ記録が伸びた。「先生、このままいったら五輪でメダル取れるよ」。順風満帆だった。しかし、日付が変わる時間帯まで店を手伝い、朝5時から朝練の生活が体にひずみをためた。けがが増え、高校3年時は記録が伸び悩んだ。

■逆転の発想

 卒業後は競技に専念。比嘉との二人三脚で取り組んだのはスタイルの確立だった。目を付けたのは足首の柔らかさ。競技用の靴はスナッチの安定感を保つためにかかとが高くなっていたが、足首の柔らかい大城は平らでもバランスが崩れない。「この方が足裏全部が使えてやりやすい」

 逆転の発想は続く。次は「つま先を上げてみたらどうか」(比嘉)。詰め物をしてつま先部分を高くすると、さらに安定感が増した。成果が実り、高校卒業から3年後の05年、全日本選手権でトータル155キロを挙げ、初優勝を飾った。

北京五輪に出場した際に着用した日本代表のジャージを掲げる大城みさき=10月16日、名護市の大西区公民館

 しかし、靴の改良を邪道と受け取る人もおり、国内や海外の競技関係者から白い目で見られた。「もう記録は伸びないよ」「日本の恥だぞ」。批判があればあるほど「よっしゃ、絶対日本記録取ってやる」と生来の負けん気の強さで力に変えた。3年後の北京五輪に向け、沖縄を拠点に鍛え続けた。07年の全日本選手権でスナッチの日本新を樹立。08年の同選手権もスナッチの日本新の83キロ、ジャークは97キロのトータル180キロで連覇を飾り、五輪代表の座をつかみ取った。

 「母は何も言わず応援してくれ、比嘉先生も子どもが小さいのに夜遅くまで練習を見てくれた。恩返しも含め、苦労が報われた」。万感の思いだった。

■悔い残るも入賞

 トップ記録と比較し、入賞を目標とした08年8月の北京大会。次のロンドンでメダル獲得を視野にステップアップと位置付けた。

 迎えた本番。得意のスナッチ1本目は77キロを難なく挙げ、幸先の良いスタートを切った。2本目の80キロ。「気が付いたら回していた」とバーベルを制御できず、まさかの失敗。3本目で80キロを成功させたが日本記録の83キロには届かなかった。ただ、メダル争いで無理をし、記録なしに終わる有力選手も複数おり、入賞の可能性は残っていた。

 ジャーク1本目は92キロを成功。96キロを申告した2本目で、不運が訪れる。しっかりと頭上に差し上げ、判定は成功。控室で次の試技に向けて準備をしている時だった。「すぐ同じ重量いくぞ」。コーチから急に告げられ「何が何だか分からなかった」。審議の結果、肘が曲がったと判定され2本目は失敗となった。

 連続試技で「バタバタしてしまった」と集中力を欠き、同重量3本目は崩れ落ちるように失敗。プラットホームを去る際、笑顔で観客席に手を振ったが「もう少し落ち着いていれば」と悔いも残した。ただ結果は8位。「自分の実力ではない部分もあったが、入賞する、しないでは大きな違い。次のロンドンではメダルを取る」と、4年後を見詰めた。

 しかし、それ以降はけがに加え、48キロ級のレベルの上昇が著しく、再び夢の地に立つことはかなわなかった。16年10月の国体を最後に引退を決意。「楽しい瞬間は2、3年に1回」と苦しみも多い競技人生だったが、最後まで国内の第一線で戦い「きっぱりと辞められた」とすっきりとした表情で振り返る。それから3年。今は名護市で学童の職員として働く。「自分は近くに五輪選手や比嘉先生がいたから、オリンピックがとても身近に感じた。今度は自分がそういう存在になりたい」。優しい視線を子どもたちに向けている。

(敬称略)
(長嶺真輝)
(おわり)