初の「天長節」記録が存在 路次楽演奏など琉球様式取り入れる 琉球処分から数ヵ月、反発心抑えるためか


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琉球併合後、初の天長節の祝いで、県側が浦添親方や富川親方に相談し琉球様式の音楽などを取り入れたことも記録されている「沖縄縣奉祝天長節實記」

 1879年4月の「琉球併合」(琉球処分)後、初の天長節(天皇誕生日)となった同年11月3日の祝賀行事について、初代沖縄県令・鍋島直彬の書記官・原忠順が記録した資料「沖縄縣奉祝天長節實記(実記)」(約40ページ)が存在していることが分かった。原書記官が琉球側の浦添親方、富川親方に相談した上で音楽などに琉球的な要素を取り入れたことなどが明らかになり、当時の状況を知る貴重な資料だ。

 まさひろ酒造の比嘉昌晋(まさくに)代表取締役会長が1955年ごろに県外の骨董(こっとう)店で入手し、昨年夏に県立博物館・美術館へ寄贈した。同館が資料の概要をまとめた上で26日、報道各社へ発表した。

 同資料によると天長節の行事として「那覇泊村の境」の塩田で昼夜に花火を打ち上げ、座楽、路次楽、唐歌など琉球様式の音楽を演奏した。天皇の写真を安置する部屋も設置し、農家では紙で作った日の丸を掲げた。行事運営者の名簿は本土側46人、琉球側35人の計81人が記される。

 琉球的な要素を取り入れた背景について琉球史に詳しい田名真之県立博物館・美術館長は「琉球処分から数カ月後で、県庁側も沖縄をどう統治するか手探りな面があっただろう。融和的な政策で反発心を持つ士族にも協力してもらおうとしたのではないか」などと指摘した。