「知識偏重」は本当か 改革の理念、あいまい 〈言わせて大学入試改革〉


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南風原 朝和

 今般の大学入試改革は、その目玉とされた記述式問題と英語民間試験の導入が、いずれも突然、見直されることになった。ではそのことによって、2021年1月に実施される新しい大学入学共通テストは、これまでの大学入試センター試験と同じになるのか、というとそうではない。

 改革を推進してきた理念として、「知識偏重」から脱却し、「思考力・判断力・表現力」を重視するということがあり、そのために、出題傾向が変わることが見込まれているからである。

 しかし、改革の議論の中で「知識偏重」と言われるときの「知識」とは何かを考えると、そのとらえ方がゆがんでいるように思える。

 「知識偏重」を批判する人たちは、「知識の暗記・再生」というような表現もよく使う。そこから見えるのは、知識というのは、例えば教科書などに書かれている事柄であり、暗記して再生するものである、というとらえ方である。

 一方、「知識とは、ものごとについて知っている事柄である」と考えることができ、これが本来の意味である。例えば、「月の満ち欠け」について、人はそれぞれ何らかの知識を持っている。深い知識も浅い知識もあり、誤った知識もある。深い知識を持っている人は、他の人が理解できるように説明することもでき、さまざまな質問に的確に答えることができる。単に教科書などに書かれていることを暗記しているのではなく、「本わかり」をしているのである。

 そのような深い知識に至るのは、人が「なぜ」という疑問を持ち、いろいろと調べたり考えたりした成果である。つまり「思考」の成果として、深い知識がある。

 改革の議論では、知識は思考の材料であり、知識の先に思考があるというような一方向的なとらえ方が見られるが、知識は思考に活用されるとともに、思考によって深められ、再構築されるという双方向的な関係があるのである。

 こう考えると、「知識偏重」という言葉が的外れなものに聞こえてくるのではないか。疑問を持ち、調べ考えることによって到達する深い知識(本わかり)はいくら尊重しても足りないくらい大事なものである。

 改革の理念と言われているものが、「知識」という基本的な概念についての不十分なとらえ方に基づくものだとしたら、その理念なるものからして、見直していく必要がある。
 (南風原朝和、東京大学元副学長)