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<メディア時評・新型コロナウイルス報道>情報不足が最大の敵 精神論でパニック防げず


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 戦争になると新聞が売れた時代があった。日本での典型例は日清・日露戦争時とされる。戦争でなくても大事件・事故が起きれば人はニュースを欲する。震災やテロなどの深刻な事件・事故がそれにあたり、確実に新聞やテレビ報道番組の接触時間が増えることが証明されている。多くの人が、少しでも早くより正確な「事実」を知りたいからだ。

 今回の新型コロナウイルス肺炎に関しても、「本当のこと」を求めて携帯のニュースサイト閲覧数が増えているという。それは、時に株価動向などの経済の先行きを心配しての場合もあるが、それも含め、まぎれもなく「不安」の解消を期待してのことだ。逆に言えば、この問題に関し最大の情報を保有するはずの政府は、可能な限りの情報を迅速に公開し、この不安を解消することが求められる。

 首相は今週に入って、さらなる緊急事態対処の法整備を求めているが、その問題点はすでに先月の当欄で指摘の通りだ。しかも、学校閉鎖も専門家の知見ではなく、自分の政治判断であることを積極的にアピールしている。エビデンスの裏打ちがない恣意的な判断で個人の権利が一方的に制約されることへの躊躇(ちゅうちょ)がないことをあらわすものだ。

 さらにいえば、政府の専門家会議は議事録がないことが判明し、その理由は土日のため速記者の手当てがつかなかったためという。こういう言い訳が通じると思っていること自体、報道機関も含め社会のチェック機能を完全に無視している証拠だ。こうした政府に、いま以上のノーチェックの強権を与えることはあまりに危険である。

空疎な首相会見

 2月29日に開かれた首相の緊急会見でも同様に、情報の開示は事実上ゼロだった。従来の情報発表内容の繰り返しの上、精神論が語られただけで具体的な政策は提示されなかった。それでも、NHKほか民放の報道番組、あるいは一部の新聞では、「強いリーダーシップが示された」「これで国民は安心できる」との評価がなされているが、本当にそうだろうか。むしろ、昨今の国会運営における真相隠しなどによる不誠実さを見るにつけ、言葉の空虚さのみが感じられたといってもよい状況だ。

 不安が解消されないため、パニックが起こる余地が高まる。その典型例の一つが、買い占め行動だ。マスクや消毒液の市場からの品切れ状況はまだしばらく続くだろう。会見で月6億枚と言われても、その根拠は一切示されず、厚労省と経産省の特設サイトでも、生産見通しについては多少触れられているものの、市場に供給される具体的な数字は示されないまま、「不要不急の買いだめは控えてほしい」との呼びかけがあるだけだ。

 生産量を、どのように供給コントロールしているのか、備蓄がどのくらいあるのかなどを、きちんと公開することがあれば、品薄は続いても不安は一定程度解消されるにもかかわらずだ。具体的な数字を挙げずに、冷静な行動を呼びかけても、その実効性はほぼゼロといえる。

 同じことは、PCR検査にも言える。事の始まりは、政府が「真相」を隠していることにある。なぜ公的機関(とりわけ国立感染症研究所)が、絶対的に検査を仕切り続けなければならないのか、「行政検査」にとことんこだわらなければならないのかの説明がいまだになされていない。自明のとおり、行政検査はあくまでも「調査」のためのものであって、直接的には治療のためでも、ましてや患者の命を救うためのものでもない。医療行為としての検査は、民間が担うことで初めて実現するにもかかわらず、政府は一貫してそれを拒み続けている。

 しかも検査数についても、長く隠し通していて、ようやく1日の検査実数が公表数の3分の1以下である1000件未満であることを認めたばかりだ。識者からは、感染症研が自分たちの研究論文を書くためにデータを独占していると指摘されたものの、国会ですらこの件については質問されず曖昧のままだ。いわば、政官ぐるみでの情報隠蔽が行われていることになる。

広がる自粛のわな

 もう一つ、不安が引き起こしているのが各種イベント等の一斉自粛だ。確かに、人が集まれば感染リスクは高まる。しかしゼロリスクを求めては社会が崩壊することも明白だ。むしろ、社会的隔離が差別を生んだり、今回の一斉休校もそうだが、社会の停滞が社会的・経済的弱者に大きなしわ寄せを生むことになる。

 こうした社会的マイナスを「国難」だからという理由で封じ込め、ゼロリスクを追求し続けることは避ける必要がある。危機感の煽動(せんどう)を抑えるのが政治の仕事であるが、現在の政府はむしろ、こうした雰囲気を煽(あお)っているとも言える。命にかかわることだけに、昭和天皇死去の際の自粛とは同列に語れない部分も多いが、その影響は歌舞音曲に限定されないだけに、その時以上とも言える。

 家族の多様化が進んでいることや、労働実態として非正規雇用者が当時に比して急増していることからも、弱者へのしわ寄せを生みやすい社会構造になっている点も考慮する必要がある。30年前より、自粛ダメージを受けやすい社会になっているとも言えるわけだ。

 マスクや消毒液もない、検査体制も整っていない、さらに感染実態も不明で、自己防御の簡易的な方法も取れないなか、政府は自己責任回避のため、イベント中止や学校閉鎖を要請しているように思える状況だ。こうしたなかで、実態としては、情報不足による不安感から、自粛が雪崩を打つように広がっている側面が強い。

 野田秀樹は3月1日、公演自粛による劇場閉鎖は「演劇の死」に繋(つな)がるとの意見書を公表した。まさに、継続・実施のために最善を尽くすことが求められていると言えるし、政府は中止や延期を求める前にまず、実施ができるための環境整備を進める必要がある。いわゆる社会・経済活動を継続させるための努力だ。その大事な一つが、適切な情報の供給・提供であるということになる。

 同時に報道機関の役割としては、いかに政府の情報隠しを許さず監視し、冷静な報道を続けるかだ。自粛イベントを列挙することは不安を煽り、同調圧力を強めることにのみ作用する。検査体制や防御用品の整備の状況を過不足なく伝え、問題点と改善策を提示し続けることが、不安感を払拭するだけではなく、イベント中止を議論する際の適切な素材にもなるだろう。

(山田健太、専修大学教授・言論法)