「何をすべきか分からない…」自分の無力さと向き合った男性が被災地で始めたこととは… 東恩納寛武さん 〈続く絆・東日本大震災9年〉㊥


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約7年の活動を振り返る東恩納寛武さん=5日、今帰仁村の自宅

 「仲間の『こっちはこっちで頑張るから』の一言で、決心がついた」

 今帰仁村湧川の東恩納寛武(ひろむ)さん(33)は一昨年の夏、移住先の宮城県石巻市から生まれ故郷の沖縄に戻った。

 震災直後の2011年から約7年にわたった被災地での暮らしに区切りを付けた。琉球大学を卒業したその年に震災が発生。その直後、津波などの被害を受けた東北沿岸部でのボランティア活動を始めた。

 「(福島県)浪江町にも行き、除染作業にも参加した。衝動的に東北に来たけれども、自分の無力さも感じていた。何ができるのか、何をするべきなのかが分からなかった」

 被災地の中でも特に被害が甚大だったのが、3277人(今年2月時点)が犠牲になった石巻市。避難生活を余儀なくされる被災者のためにできることを模索する中、見いだしたのが郷土に伝わる踊りだった。

 12年夏、東恩納さんが仲間を募って湧川青年会の道ジュネーに参加。13年に同青年会の型を踏襲してエイサー演舞団体「エイサー石巻」を立ち上げた。

 「最初は10人ほどで踊りはじめた。僕らが湧川の道ジュネーに参加したり、青年会を石巻に呼んだり。交流は今も続いている」。活動を続けるうちに輪は広がり、今では石巻市の夏祭りで50人が踊りを披露するようになった。

 エイサーを通じた交流は新たな出会いも育んだ。湧川出身の嘉陽愛華さん(23)は高校1年の時、地元の道ジュネーに参加するために帰郷した東恩納さんらと出会い、17年4月に石巻市に移住した。嘉陽さんは「人の温かさが湧川ととても似ている。ここでエイサーをやりたいと強く思った」と振り返った。

 被災地と郷土につながりの種をまいた東恩納さんは、後進の嘉陽さんにバトンを渡した後、新たな一歩を踏み出した。

 「これまでエイサー中心の生活で、パンクしてしまった。もう一度自分の人生を見直そうと思って帰郷を決めた」。湧川に戻り、大学時代から学んできた英語を生かすために米軍基地の雇用員として働き始めた。「まずは経済的な自立が大事」と笑う。

 9年目の「3・11」を前にした2月下旬には、“第二の故郷”を訪れた。仲間たち約20人と岩手県へ温泉旅行に出掛け、旧交を温めた。「しばらくは地元に根を下ろし、エイサーやその他の伝統芸能も学んでいきたい。そこからまた新たに見えてくるものがある」。その視線はまっすぐ前を見据えていた。
 (安里洋輔)