「冷静に向き合うような節目は来ない」 15歳だった記者が経験した震災


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 8年前、15歳の私は岩手県宮古市で東日本大震災を体験した。実家の目の前まで津波が押し寄せ、高台に避難した。その瞬間をはっきりと思い出せない。記憶に残っているのは「茶色の風景」だ。

 3月1日、8年ぶりに高台を訪ねた。やはり「茶色の風景」が目の前に広がっていた。枯れて茶色くなった草木が背丈まで伸び、津波が襲った湾岸沿いの視界を遮っている。私はあの日と同じように避難経路を歩きながら、少しずつ当時の記憶をたぐり寄せた。
(※記事には津波の写真が含まれています)

 2011年3月11日午後2時46分、私は父が運転する車で中学校から自宅に向かっていた。突然、車が上下左右に大きく揺れた。地面がうねるような大きな揺れだった。

 「何? パンク?」

 宮古湾に注ぐ閉伊川の河口近くにある自宅の前に着くと、家の中から姉がはだしで飛び出してきた。自宅近くの小学校の校庭には児童が集まっていた。地震だと気付いたのは、この時だった。

 家の中は物が散乱していた。片付けをしていると、地鳴りとともに再び大きな揺れが起きた。家がきしむ音も響いた。その場に立っていられず、しゃがんで揺れが収まるのを待った。程なくして大津波警報を知らせるサイレンが鳴った。

宮古市を襲った黒い津波(いわて震災津波アーカイブ、宮古市提供)

 「大した津波は来ないだろう」と思っていた。それほど急ぎもせず、姉と一緒に高台の「伊藤牧場」に向かって歩いた。家から5分ほどの高台には小学校の児童や職員、地域の住民、近くにある缶詰工場で働く人が集まっていた。

 急に天気が悪くなり、雪が降り始めた。寒さで震える児童を見て、防寒用の衣類を取りに姉と家に戻った。荷物を持って家の外に出た時、「ドーン」と大きな音が聞こえた。何の音か分からないまま、再び高台へ向かった。後日、自宅後ろに敷かれたJR山田線の線路につながる橋りょうが津波で破壊された音だったと知った。

 薄暗くなり始めた午後5時頃、高台を下りた。家の後ろにある線路の土手に津波がせき止められ、自宅は床下浸水で済んだ。室内は無事だった。校庭や家の周辺の地面を黒い液体が覆い、ヘドロの臭いが漂っていた。線路の土手に上り辺りを見ると、向こう側にあった家はがれきとなり、ひっくり返った車がぐちゃぐちゃに積み上がっていた。

 見たことのない光景を見た私は、これが現実なのかどうかという判断がつかなくなっていた。4日後には3年間通った中学校を卒業し、春からは姉から譲り受けた制服を着て高校に通う。思い描いた未来は街とともに黒い波にのまれてしまった。「わたしのあしたは、どこへいったんだろう」と思った。

 この時から私は震災から目を背けるようになった。がれきを見ても「誰が片付けるんだろう」と人ごとのように考えていた。

藤原1丁目に流れ着いたがれきの山。車のクラクションが鳴り続けていた=2011年3月11日

 何が起こったのか情報を集めようと避難所になっている小学校の体育館を訪ねた。津波にのまれたという高齢の男性が毛布にくるまり震えていた。家で湯たんぽを作り渡した。余震のたびに身を固くした。家に戻り、居間に布団を運んで家族で寝た。「朝起きたらいつも通りになっているんじゃないか」と一人で願掛けのようなことをした。

 翌日、父と母と私の3人で近所のがれきの山の中を黙って歩いた。足元に毛布にくるまった死体を見たが、何も感じることができなかった。電気と水道が止まったので、近所の神社で沢水をくみに行くのが日課となった。

津波で破壊された、閉伊川にかかる橋りょう(いわて震災津波アーカイブ、宮古市提供)

 学校もしばらく休みになった。日が昇っている間は、昨日まで教室で読んでいた本の続きをひたすら読み進めた。何かをしていないと落ち着かない。津波でぐちゃぐちゃにされた気持ちを誰にぶつければいいのか分からなかった。

 震災から数日後、一人の同級生が安否確認のため家に訪ねてきた。それから何日間か、中学での思い出話やこれからどうなるのかなどを話した。

 当初よりも遅れて中学の卒業式が開かれた。親を津波で亡くした同級生のことを思い、私は両親を呼ばなかった。開式のあいさつの時、こわもての先生が私たちと向き合った途端に泣き出した。私はこの時初めて、震災が大きな出来事だったと受け止めた。それでも自分が被災地にいるという実感は湧かなかった。

 1カ月遅れて高校に入学した。入学式の日、制服の準備ができていない人は中学校の制服で登校することになった。私には姉の制服があったが、しばらくは中学校の制服を着て過ごした。なぜそうしたのか、はっきりと思い出せない。申し訳ないという気持ちからだったのだろう。

 がれきが残る海沿いの道を自転車で通った。粉じんを吸ったからかぜんそく気味になった。

 高校、故郷を離れ沖縄での大学進学、就職と震災後の8年を生きてきたが、震災の体験や思いを口に出す機会は少なく、自分の中に押し込めていた。

2019年3月23日の全線開通に向けて、橋りょうの上を試運転する三陸鉄道の列車=2019年3月4日、岩手県宮古市
当時と同じ場所に立った。残っている家が多く、景色は震災前とさほど変わらない=2019年3月2日、岩手県宮古市

 今回、姉と一緒に避難した道を歩いた。再訪した街は自動閉鎖する水門や防潮堤が造られていた。津波で破壊された橋りょうも修復、23日に三陸鉄道リアス線が開通する。

 目に見える変化が街にはあった。しかし、受け入れ難い出来事として震災の記憶を避けてきた私は、今も心の整理ができずにいる。当時は、突然日常を奪われる空虚感や、状況を誰のせいにもできない葛藤を抱えた。失ったものだけでは被災の度合いを量れないと分かっているが、正直、家も家族も無事な私が何を語れるのかというためらいもある。

 閉ざした記憶と8年ぶりに向き合ったが、どのように震災を受け止めればいいのか分からなかった。何年たっても2011年3月11日に冷静に向き合うような節目は来ない。時間がたとうが風景が変わろうが、あの「茶色の風景」と共に、残り続ける葛藤があるのだと気付いた。
(関口琴乃)