写真で思い起こす幼いころの美しい松並木 戦前の写真発見で86歳の宮城正道さん


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戦前の普天間宮(普天満宮)やその周辺の光景(野々村孝男さん提供)

 1916年から45年までの約29年間、沖縄に滞在した鹿児島県出身の農業技師・松永高元さん(1892~1965年)が撮影した戦前の沖縄の写真88枚は、沖縄戦で焦土と化す前の県内各地の風景を記録している。戦前、普天満宮の近くで生まれ育った宮城正道さん(86)は、普天間の松並木で撮影されたとみられる写真を見て、子どもの頃の思い出を語った。

普天間の松並木で遊んだ思い出などを語る宮城正道さん=宜野湾市普天間

 普天間小学校の登下校時にいつも松並木を通った宮城さん。通り道は木陰になっていて、暑い日でも過ごしやすく「かくれんぼや石ころを蹴飛ばすなどして遊んだ」という懐かしい場所だ。

 普天間から首里へ向かう松並木は「宜野湾街道ノ松並木」の名称で32年に国の天然記念物として指定を受けた。美しい街道は人々の心を和ませる風景だったという。

 45年、米軍上陸が迫ると、日本軍は米軍の戦車が通るのを防ぐため、松を切り倒し、道に敷いた。

 戦争で被害を受けた松並木だが、一部は戦後も残っていた。しかし、松食い虫で立ち枯れした松が民家に影響を及ぼすことなども懸念され、58年には残っていた松も切り倒された。松並木は姿を消し、商店街などが建設された。松並木が切り倒される状況について宮城さんは「惜しいなと思っていた」と話し、今では見られない光景を振り返った。

 宜野湾市立博物館学芸員の平敷兼哉さんは普天間の松並木で撮影されたとみられる写真について、25年に開かれた地域行事「普天間のマールアシビ」で撮影された可能性があるとした上で「組踊で(男性が女性を演じる)女形の出演者だと思われる人もいる。日差しが明るく、これから演じるところではないか」との見方を示した。

名護の風景、建物も 撮影松永さん、農業に貢献

名護の護佐喜宮付近とみられる写真(野々村孝男さん提供)
松永高元さん

 鹿児島県出身の農業技師・松永高元さん(1892―1965)は約29年間の沖縄滞在中、勤務先の移転などに伴って住む場所を3回替え、農業振興に取り組んだ。1934年には収量が多いサツマイモの品種「沖縄100号」を開発し、深刻化する食糧難の中で県民の飢えをしのぐことに貢献した。

 1916年から23年には名護、23年から26年には普天間、26年から45年まで小禄に住み、沖縄戦直前の45年3月に病気のため出身地の鹿児島へ帰った。帰郷時に松永さんは家財と一緒に沖縄で撮影した写真をまとめたアルバムも持ち帰り、戦後も保管していた。

 松永さんが来県して最初の勤務地となった県立糖業試験場名護支場で勤務していた際に撮影したとみられる写真も多い。当時の名護大通りや名護湾、国頭高等女学校とみられる風景や建物の写真もある。名護博物館によると、英国人植物学者E・H・ウィルソンが1917年に撮影した写真と比較し、枝ぶりや木の形などから名護の護佐喜宮の付近であると特定できた写真もあった。

 松永さんの次女・多恵子さんが保管していることを那覇市の歴史研究家・野々村孝男さんが確認し、託されたのは2002年。各地域の自治会や博物館などで写真を見せながら場所の特定を進めた。今も場所が特定できない写真も残る。

 松並木の写真は、戦前の風景を知る地元住民の証言や、民俗芸能の衣装、松永さんが勤務していた県立農事試験場に生えていたリュウゼツランも写っていることなどから普天間で撮影されたものと判断した。