まちぐゎーに張り巡らされているアーケードは、旧・第一牧志公設市場の解体工事にともない、旧・市場に面した区間に限り、撤去されることになった。撤去が始まったのは1月6日のことだ。市場の西側にあるアーケードの撤去を請け負ったのは、「サイン美広社」の大城盛一さん(78)である。
糸満生まれの大城さんがまちぐゎーに関わるようになったのは、新聞で見かけた求人広告がきっかけだった。20歳を迎えた頃、大城さんは自動車免許を取得したものの、クルマを持っていなかった。どうにかクルマを運転できないかと思っていたところに、「三陽」という看板屋さんが「運転手募集」と広告を出していたのだ。
「この会社は、まちぐゎーの消防署のすぐ向かいにあって、社長の親父さんはなかなかやり手でしたよ。最初は『どこどこで材料買ってこい』と運転手をやっていたのが、だんだん現場に出るようになって。あの当時、ドリルはないわけよ。ポンチみたいなのを打ってコンクリに穴を開けて、それで看板を取り付けよったんです。時間もかかるし、とにかく大変だったね」
手伝いの依頼
4年ほど「三陽」に勤めながら技術を学ぶと、大城さんは独立し、ひとりで「サイン美広社」を立ち上げる。看板屋は文字を書くからと、「サイン」という言葉を社名に入れた。オートバイで営業にまわり、あちこちで看板を書いてきた。
「その頃はまだ、看板を取りつけるより、建物の壁に書くのが主流だったんですよ。どんな書体がいいかと家主と相談して、あとはその通りやればいいわけ。高いところも好きなほうだから、ロープに下がってでもやるよーって引き受けてたね。もう30年ぐらい前になるけど、具志川に製糖工場があって、そこの煙突に看板を書いたこともある。この仕事が性に合ってたんだろうね」
看板屋として働く大城さんのもとに、1件の依頼が舞い込んだ。それは、アーケードの工事を手伝ってほしいという依頼だった。
「このあたりのアーケードは、平和通りから始まったんです。それを請け負った会社から、人数が足りないから加勢してくれと頼まれたわけ。昼間は人通りが多いもんだから、夜10時あとぐらいから始めて、朝までずっと工事やってましたね。アーケードの骨組みを作って持っていくんだけど、いざ取り付けようとすると収まらんわけよ。勾配があったり障害物があったりするから、現場でまた加工して溶接しないといけない。難儀だけど、とにかくやる以外ないから、なんとか完成させた。出来たばかりの頃は、国際通りは人がいなくても、アーケードの下は人が溢(あふ)れていたね」
工事の中止要求
1981年に平和通りのアーケードが完成したのを皮切りに、まちぐゎーには次々とアーケードが作られてゆく。サンライズなはを除けば、大城さんはほとんどすべての建設工事に関わってきた。工事を進めていると、アーケード設置は法律に違反するとして、那覇市は工事の中止を求めたという。
「通り会の人たちが『アーケードを作りたい』と陳情に行っても、那覇市は絶対に許可しないわけよ。陳情に行っても、たらいまわしにされる。これじゃあどうにもならないから、『責任は通り会が持つから』と言われて、工事を始めたわけ。そうしたら市役所の人がうちにきて、『工事をストップしなさい』と言うんだけど、『これは私に言ったってどうにもならんから、通り会の人に言ってください』と。でも、通り会のところには来なかったみたいだね」
大城さんはアーケードの設置だけでなく、台風で穴が空けば修繕工事を請け負ってきた。今回の撤去工事も一部を担当したが、工事の見積もりは他の業者に比べると格安だった。設置工事に関わったからには、その後の面倒も見なければという思いから、赤字が出るような価格で引き受けたのだという。
「アーケードがなくなってみると、やっぱり寂しかったですよ。でも、新しいアーケードがどんなふうになるか、それが楽しみでもあるんだけどね」
生活と法律
撤去されたアーケードの今後は、まだ具体的な見通しは立っていないのが現状だ。予算の問題もあれば、建築基準法や消防法の問題もある。撤去された区間以外のアーケードも、これから補修や改築が必要になってくるだろう。
「昔に比べると、今は法律が第一だからね」と大城さん。「だけど、法律通りにやって締めつけてたら、費用がかかり過ぎてどうにもならんよ。それに、アーケードというのは大事なものだと思うよ。こうやって日射しや雨を避けるものがあるから、人がたくさん通るわけ。やっぱり、アーケードがないと那覇市は発展しないと思うね」
戦後の荒れ果てた風景の中から、なんとか生活を立て直していくために、超法規的に発展してきたのがまちぐゎーだ。昭和と平成も過去となり、令和を迎えた今、「超法規的に」とアーケードを再建するのは難しいだろう。しかし、法律に合わせて生活があるよりも、生活に合わせて法律があるべきだと私は思う。アーケードの下、小さな個人商店が軒を連ねるごたごたとした風景こそ、私が美しく感じる那覇の姿である。
(橋本倫史、ライター)
はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。
那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。
(2020年3月27日琉球新報掲載)