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新型コロナと翼賛思想 国家統制強まる恐れも<佐藤優のウチナー評論>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 新型コロナウイルスによる感染が日本中に拡大することを阻止するために沖縄も日本も全力を尽くしている。その過程で国家と社会に大きな変化が生じている。

 3月26日、県の危機管理本部対策会議で玉城デニー知事は「不要不急の県外への旅行についてはできるだけ自粛してほしい」と、県民に向け初めて呼び掛けた。同日夜に東京、神奈川、千葉、埼玉、山梨の1都4県の知事が共同メッセージを発表した。人混みへの不要不急の外出やイベント開催・参加を自粛するよう求めるとともに、「密閉空間」「多くの人の密集」「近距離での会話」の条件が重なる場を避けるよう呼び掛けた。さらに在宅勤務と時差通勤を要請した。

 新型コロナウイルスによる感染拡大を防ぐためには、人々が移動を差し控えることが効果的であるというのが公衆衛生専門家の間で共通見解だ。本紙は3月28日の社説で〈渡航の自由は大切な人権である。しかし今は人々の命と健康が脅かされる局面にある。渡航によって感染のリスクがある以上、知事の呼び掛けを深刻に受け止め、分別のある行動を心掛けたい〉と主張したが、その通りと思う。

 ところで、イタリア、フランスなどは、感染拡大を防ぐために移動の規制を法律や条令で定めている。これに対して中央政府も沖縄も法律や条令によって行動を規制することに対しては慎重だ。憲法第22条では、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と定められている。何人ということは、日本国民だけでなく、外国人、無国籍者も含まれるということだ。

 移動(移転)の自由はあらゆる人が本来的に持つ基本的人権の一つだ。それを制限する唯一の例外が公共の福祉に関連する場合だ。新型コロナウイルスに感染した疑いのある人を一定期間隔離する、特定の国からの入国を規制するなどは公共の福祉によって正当化される。

 法律や条令によって、新型コロナウイルス対策として、人の移動を規制することも理論的には可能なはずだ。しかし、政府も都道府県もそれをしない。その理由は二つある。

 第1は、そのような法律や条令が憲法違反であるという訴訟を起こされた場合、裁判所によって違憲という判断がなされる可能性があるからだ。裁判所で合憲になる見通しが高いとしても訴訟が起こされれば、それに対応するエネルギーが厖大(ぼうだい)になる。行政官はこの種の仕事を嫌う。

 第2は法律や条令が存在しなくても、国や都道府県が自粛を呼び掛ければ、法律や条令に相当する効果がこの国ではあるからだ。行政府が国民の同調圧力を利用するのだ。これは、基本的に翼賛と同じ発想だ。

 翼賛の本来の意味は、〈力を添えて助けること。天子の政治を補佐すること〉(『デジタル大辞泉』小学館)だ。翼賛は強制ではないという建前だ。人々が自発的に天子(皇帝や天皇)を支持し、行動することが期待される。期待に応えない者は「非国民」として社会から排除される。新型コロナウイルス対策の過程で、無意識のうちに翼賛という手法が強まっている。

 確かに現状では、行政府による自粛要請は必要だ。しかし、その過程で無意識のうちに行政府が司法と立法府に対して優位になる可能性がある。それは国家による国民の監視と統制の強化に直結する。この危険を過小評価してはならない。県がこの点について留意しながら新型コロナウイルス対策を進めることを期待する。(作家・元外務省主任分析官)

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