「なぜ、いつも沖縄か」米軍ヘリから窓が落下した小学校の前校長 市長だった父の口癖に共感 普天間返還合意きょう24年


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
米軍普天間飛行場のフェンス沿いを歩く桃原修さん=3日、宜野湾市新城

 【宜野湾】宜野湾市の真ん中に横たわる米軍普天間飛行場の全面返還合意から12日で24年がたつが、返還時期は見通せない。市民は日々騒音に悩み、10日には有害物質を含む泡消火剤が同飛行場から流出する事故も起きた。市民生活は常に危険と隣り合わせだ。2017年12月に普天間所属ヘリの窓落下事故があった普天間第二小学校・前校長の桃原修さん(60)は、返還合意時市長で04年に死去した正賢さんの次男だ。返還は県内移設が条件とされ、「なぜいつも沖縄か」と口癖のように言っていた父に共感する。

 返還合意された1996年4月12日、正賢さんは市内で報道陣の取材に「待望の朗報。いよいよ沖縄の夜明けが来た」と歓迎した。しかし返還は県内移設が条件とされ、市長退任後の本紙取材で「新たな苦労を思うと気の毒だ。手放しでは喜べない」と複雑な思いを吐露した。

 正賢さんや1月に死去した母・加寿子さんと同様、教員の道に進んだ修さん。戦争で腰に弾の傷痕が残る正賢さん、軍属として動員され九死に一生を得た加寿子さんらを通し「生き抜く」という強い意志を学んだ。

返還合意を喜ぶ、宜野湾市長当時の桃原正賢さん=1996年4月12日、市内 写真

 加寿子さんが定年退職した普天間第二小へ赴任を希望した直後、同小の運動場に窓が落ちた。赴任すると運動場が自由に使えず、体育の授業中に米軍機が飛ぶ度に避難する児童の姿を見て涙が出た。

 学校には「ヘリが飛び交う中で平気でいられるのは異常だ」など、過酷な教育環境を強いられている現状を解さない電話が相次ぎショックも大きかった。ヤギを飼うなどし少しでも学校を明るくしようと努めた。

 3月の卒業式は式辞で、落下事故を経験した6年生に「運動場が閉鎖されつらい思いをさせてごめんね」と謝った。

 市野嵩で生まれ育った修さんが子どものころ、飛行場沿いのフェンスは今ほど厳重でなく、ジェット機の飛来も少なかったという。現在は「強化されている」と感じている。国は「県民に不利な日米地位協定を変えず、なぜ大変な思いをしている県民の声を聞いてくれないのだろう」と悲しむ。基地問題に振り回された正賢さんに自身を重ね、24年という歳月に「諦め感はない。何とかしないといけないと思う」と安全安心な町を願う。 (金良孝矢)