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<メディア時評・感染追跡と自粛警察>社会的弱者を攻撃 実証的報道で命守る


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「自粛警察」という言葉が一部で使われる。他人の行動を監視する行為をさし、営業している(と勝手に思い込んだ)店舗に脅迫まがいの張り紙や電凸を行う事例もあるようだ。沖縄県下でも、感染者の実名や住所を暴いて、その行動を非難するばかりか人格攻撃をするに至っている。そうした違法もしくは不当な行為自体が許し難いことはもちろんだが、用語としても嫌な使われ方だ。

 さらには、医療関係者やエッセンシャル・ワーカーと呼ばれる人々やその家族への差別行為も、残念ながらいまだに続いている。当欄では、2月から3カ月連続でコロナ禍を扱ってきたが、今月も続くことをご容赦願いつつ、背景にある「隔離」の問題を考えたい。

「非国民」扱い

 自分が絶対に安全な立場にいる、あるいは正しいという思い込みのもとで、自分からみて少しでも考えが異なる、あるいは自分の安全を少しでも脅かすと勝手に認定した対象を、徹底的に排除するという行為が、先に挙げた「自粛警察」の特徴だ。いわば私刑(リンチ)であるわけだが、その起因するところはなかなか厄介で、今回に限った話ではない。

 一つには、国を挙げての炙(あぶ)り出し政策(クラスター潰(つぶ)しと社会的隔離政策)のまっただ中にあって、いわば「お墨付き」を得ての行為であると見えてしまう点である。二つ目には、現在は有事であって、心を一つにして頑張るときに、その団結を乱すのは「非国民」というレッテル張りが正当化されやすい状況にある。そして第3には、ずるいやつを懲らしめてやるといった「義侠心(ぎきょうしん)」(正義感)の現れである場合も少なくないかもしれない。

 さらにこうした基盤には、この場に及んでお上に逆らうのかという権威に頼りがちな社会風土があろう。スタンピード現象と呼ばれるように、いったん決まった目標に対し、全体として一気呵成(いっきかせい)に流れやすいといった国民性もある。さらには、国民の潔癖性も関係しているかもしれない(これは、手洗いやうがいの遂行という形で、今回は感染防止に大きな役割を果たしてもいる)。

不安感の蔓延

 しかしこうした行動の直接の要因は、社会全体に蔓延(まんえん)する「不安感」ではないか。残念ながらこうした感情を日本国内で引き起こしているのは、政府を代表とする公権力の姿勢だ。節目で行われる首相記者会見でも、美辞麗句は並べられるが具体的な説明が決定的に欠如している。当初の一斉休校の時、緊急事態宣言の際も、そして今回の延長時に至っても、6度の会見において科学的根拠や数値目標が明確にされることはなかった。同じことは、事実上の政策決定機関である専門家会議についても言える。

 いつまで続くかわからない自粛要請、しかも金銭補償はなかなか支払われず、生活は困窮するといった、欲求不満や不安のはけ口に、社会的弱者が選ばれるという構図だ。当初は中国人だったし、次に若者、そして感染者さらには自粛を守らない(守っていない、さまざまな理由で守れない)人と、次々と対象を変え、「異端者潰し」が続いている。このままでは終わりがなく、次々とターゲットを変えて、自分より弱い立場の者を攻撃し続けることになるだろう。

 こうした状況は、これまでもあったことに気づく。それが「沖縄ヘイト」であり、昨年の大きな社会的事象となったあいちトリエンナーレを巡る作家や主催者バッシングであったわけだ。先に挙げた条件がいくつも重なっており、同じ構図で起きていることがわかるだろう。

危うい追跡アプリ

 ここまでの話はいわば、政府に透明性が欠如しているということであるが、これは同時に信頼性の低下にもつながっている。公権力が頼りにならないからリンチが流行(はや)るということだ。こうした状況が、発生の当初に起こる場合は、準備不足という判断がなされよう。しかし、それから3カ月以上経過しても、いまだにPCR検査の数は一向に増えず、感染者数等の統計データさえきちんと示しえていない。

 そうした中で政府は、自らのクラスター潰しの限界をカバーするために、民間の力を借りる形で「接触追跡アプリ」の導入を予定している。感染者に一定程度一緒にいた濃厚接触者を、その人の携帯に保管されている感染者との接触データを遡(さかのぼ)って割り出し、通知をするというアプリだ。今月中に実証実験が開始される見込みである。

 個人を特定できる情報は扱わないとか、政府が直接データ収集・保管は行わないとか、本人が了解した場合だけだとか、さまざまな歯止めが用意されている。その結果、法律家からは個人情報保護法の枠内だし、国際基準のGDPR(一般データ保護規則)にも反していないので問題ないとのお墨付きをもらった形だ。

 しかし問題は、こうした法枠組みの問題というより、これまでのコロナ禍に対する政府の情報の扱いが、あまりにいい加減で不透明なことに対する、決定的な不安と不信感が拭えない中で、あえて強行することが許されるかという点である。法律解釈上正しいのと、前提となる社会状況や運用主体の実態も含め、当該社会に導入することが許されるかは別問題だろう。

 今の政府の個人情報の扱いは、すでに警察が運用中の車の追跡のためのNシステムや監視カメラにしても、その運用実態は公開されていない。日本国内でも米国同様に、携帯情報を全て吸い上げ全利用者の行動履歴を把握していると、スノーデンは指摘している。

 こうした「非公式な」個人情報の収集、そして個人監視が進んでいる中で、さらなる手段を「公式」に認めることは、明らかに次のステップに向かうことを意味する。開かれた政府の実現は、この間、平時においても繰り返し言われてきたことであるが、緊急事態にこそ民主主義を機能させる必要がある。緊急事態だから自由を制限することも、権力分立を制限することもやむを得ないという議論は、まったく逆である。

 こうした中で、メディアは「ポジティブ・ジャーナリズム」を心掛けてほしい。次のステージを考えながら、内向きになりがちな市民一人ひとりの背中を押す報道だ。それが他者への攻撃を抑えることにもつながることだろう。これまでは、感染者数や経路といった「行政広報」がコロナ報道の中心になりがちだ。専門家がオーバーシュート(医療崩壊)というと、それを伝えてきた。福島原発事故の教訓からすると、科学を疑うこと、政官財学のムラ社会を突破することも求められている。それもまた積極的で実証的(ポジティブ)な報道の実践だ。

(山田健太、専修大学教授・言論法)