慰霊の日追悼式 なぜ場所変更 戦没者墓苑開催に賛否


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
糸満市摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑

 新型コロナウイルスの拡大防止のため6月23日の沖縄全戦没者追悼式の縮小に伴い、玉城デニー知事が会場を平和祈念公園の広場から国立沖縄戦没者墓苑に変更すると発表したことについて、沖縄戦の研究者などからは「戦争を賛美する多くの都道府県の慰霊の塔がある近くでの追悼式に違和感がある」「平和メッセージの発信には平和の礎のそばがいい」との声が上がっている。一方で県遺族連合会などは県の判断に理解を示す。玉城知事には決定の過程や理由について一層の説明が求められそうだ。

 沖縄全戦没者追悼式は1952年に初めて首里城跡の琉球大学広場で行われた。77年には摩文仁の丘広場で22都道府県知事や一般から5千人が参列し、平良幸市知事(当時)が初めて「平和宣言」を行った。

 沖縄戦に詳しい石原昌家沖縄国際大名誉教授は「県民だけでなく、全ての戦没者の名前を刻んだ平和の礎を背景に二度と戦争を起こさない誓いと、国際平和への願いを発信する大きな意味がある」と平和の礎近くで追悼式を行う意義を強調する。一方で国立墓苑での追悼式については、国が戦争被害住民に援護法を適用する際に“戦闘参加者”として準軍属扱いしたことに触れ、「天皇や国のために『殉国死した』という遺族を絡め取る国のやり方を県が追認することになるのではないか」と懸念を示す。

 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さんは「遺骨が納められた墓苑で追悼式をすることは理解できる」としながらも国立墓苑での追悼式は「加害者である国の立場に近い慰霊祭になっていかないか。県が管理する国際平和墓苑とするなら開催してもいいと思うが」と話す。

 名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さんは「沖縄の人は空間を拝む習慣があり、魂魄の塔から遺骨を移した後も多くの人が塔に通い続けている。国立墓苑の近くには黎明の塔を中心に、各都道府県の慰霊の塔があり、ほとんどが軍人を祀(まつ)っている。県民が違和感を覚える理由ではないか」と指摘する。

 一方で県遺族連合会の宮城篤正会長(78)は「元の場所が一番いいが、国立戦没者墓苑も特に違和感はなかった」と県の判断に理解を示す。個人の考えとした上で「墓苑には軍人だけでなく一般の人の遺骨も祀(まつ)られている。沖縄全域で拾った遺骨が納められた墓苑での開催も選択肢としてあるのではないか」と話した。

 県保護・援護課の大城清剛課長は「かつての激戦地であり、約18万柱の遺骨が納められている。み霊を慰める場所としてふさわしい場所だ」と説明した。

 

<用語>国立沖縄戦没者墓苑  

 1979年に創建。県内で収集された約18万余の沖縄戦戦没者の遺骨が納められている。県内での遺骨収集は46年、米軍の指示で糸満市米須一帯に移った旧真和志村(現那覇市)の人々がいち早く取り組んだ。摩文仁一帯で約3万5千の遺骨を収集し、石を積み上げて魂魄の塔を建立した。57年、那覇市識名に戦没者中央納骨所が建設されると魂魄の塔の遺骨は同所に移され、さらに79年には国立沖縄戦没者墓苑に移された。