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恩師と出会い才能開花 高校まで無名、自身を「怠け者」 琉球ゴールデンキングス・田代直希(上)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 プロバスケットボールBリーグ1部の琉球ゴールデンキングスで昨季から主将を務める田代直希(26)=千葉県・東海大付浦安高―専修大出。今年1月には初めてリーグオールスターに選ばれ、ハードワークを武器に人気、実力ともにトッププレーヤーへの階段を上る。しかし、高校までは全国大会の出場経験が一度もなく、ほぼ無名の選手だった。自身を「怠け者だった」と評する田代が、いかに“キングスの顔”を張るまでに成長を遂げたのか。山あり谷ありのバスケ人生に迫る。

点取り屋として活躍していた専修大時代の田代直希。この頃からNBAで最も好きな選手というコービー・ブライアントと同じ「24番」を着け始めた(本人提供)

■冷めた性格

 千葉県船橋市出身。幼い頃は野球に明け暮れ、松井秀喜に憧れる大の巨人ファンだったが、小学4年の時に二つ上の兄の影響で学校のミニバスケチームに入った。6年時は同学年の平均身長を10センチほど上回る160センチで運動能力も高く、「全てのポジションをやっていた」とチームを先頭でけん引し、県大会2位の好成績を残した。

 今のストイックな姿からは想像し難いが、元々「情熱にあふれたことが嫌い」という冷めた性格。友人や兄の誘いで中学でもバスケ部に入ったが、朝練には一度も顔を出さず、県大会前の地区大会で負け続けた。

 転機は、受験勉強に熱中していた中学3年の秋。体育の授業がバスケだった。ぶつぶつとしたボールの手触り、シューズとフロアがこすれる音―。約半年ぶりのプレーは全てが懐かしい。「やっぱりおもしれー」。再燃したバスケ熱が冷めやらぬまま、すぐに千葉県内の強豪、東海大付浦安高に連絡を入れ、翌日の練習から参加を認められた。その練習に2時間遅刻するという大失態を犯したが、後に恩師となる石井和幸監督に高い得点能力を見いだされ、スポーツ推薦を勝ち取った。

■点取り屋に成長

 高校時代にたたき込まれたのは「継続は力なり」の教えだ。定年退職間際だった石井監督は「厳しかったけど、『ヤバイ』とか若い人の言葉を使う柔らかさもあって、熱いのが苦手な自分に合っていた」と柔軟な指導で練習に前向きさが生まれ、バスケに取り組む姿勢も変化した。

 入学前に172センチだった身長は高校3年時には188センチまで伸び、体の使い方を徹底的に鍛えたことで、当時は「ジャンプすれば周りは届かなかったから、得点するのが簡単だった」。

 競争の激しい千葉県内では3年間、全国には手が届かなかったが、1試合で30~40点を挙げる点取り屋に成長を遂げた。3年時には本大会には出場できなかったものの、初めて国体選手にも選出。ただ「規律の厳しい体育会系は合わない」と大学でバスケを続ける気はなかった。その中でも「プロで通用する」と高く買ってくれていた石井監督は「お前はバスケを続けろ」と言い続けてくれた。選手の自主性を重んじる専修大を紹介され、進学を決めた。大学ではもう1人の恩師、中原雄ヘッドコーチ(当時)の下、スコアラーとしての才能がさらに大きく花開くことになる。

 人生の大きな分岐点で強く背中を押してくれた石井監督は昨秋、他界した。ウイルス禍でOBらによる「送る会」は中止になり、まだお墓参りはできていない。「今バスケを続けられているのは本当に石井先生のおかげ。オフには一度、千葉に戻りたい」。深い感謝を込めて手を合わせることにしている。

 (長嶺真輝)