地上の首里城、地下の32軍壕「歴史の両輪、放置せず公開を」 88歳の首里人・吉田さん <6・7県議選 1票の現場から>1


この記事を書いた人 Avatar photo 米倉 外昭
首里城再建について周辺のまちづくりや首里城地下にある32軍司令部壕公開の重要性を語る吉田朝啓さん=24日午後、那覇市

 県議選が告示された。平和や基地問題、医療格差など、沖縄社会には多くの課題がある。暮らしを見つめ、地域に住む人たちの「声」を追った。

 日曜日の午後2時、首里城に人影はなかった。首里で生まれ育った根っからの首里人(すいんちゅ)、吉田朝啓さん(88)の自宅はゆいレール儀保駅下にある。車両が近づくたびにメロディーが流れ、乗客を運ぶ姿は日常に溶け込んでいた。

 75年前、首里城と周辺一帯はがれきであふれていた。吉田さんは頭の中で、戦前と今の街並みを常に対比している。「戦前の首里の街並みを知る最後の世代だろう。生きている間に知っていることをしっかり伝え、後輩たちに首里の未来を考えてもらいたい」

火災で全焼した首里城の正殿前で焼け残った一対の大龍柱と階段に転がる焼け焦げた柱。奥は南殿・番所=2月4日

 子どもの頃の遊び場は、もっぱら首里城下町。首里城や弁財天堂を自由に通り抜けていた。当時は住宅街もなく、うっそうとした森だった。川が流れ、魚釣りをしたり、水浴びをしたり、自然があった。

 その日常が徐々に変わっていったのは、県立第一中学校に入学した1944年ごろ。首里城地下で日本軍第32軍司令部壕の構築が始まった。「皇国少年だったから。つるはしを持って壕掘りを手伝おうとした。そしたら軍服を着た偉そうな人に叱り飛ばされてしまった。上(地上)には立派な城があって、下(地下)にも戦争の城があるなあ、と」

第32軍司令部壕の内部=2015年6月9日

 沖縄戦が始まる直前の45年3月に大分県へ疎開。翌年秋に沖縄に戻った。戦前に見た緑はすべてなくなり、がれきの山に変わっていた。石灰岩の白さが目に染みた。「強烈だった。屋敷も石垣も、地上の建物は全部なくなった。それでも路地の脈絡は残っていた」。わずかに残った自宅の痕跡を見て感じた。「一度消えたら何も残らない。残ったものは守らないといけない」

 昨年10月31日、燃え続ける首里城を見て、75年前のことを思い出していた。

 1992年に首里城正殿が復元され、年間280万人の観光客が訪れるようになった。県が4月に発表した首里城復興基本方針は、首里城周辺の地域づくりや沖縄戦で失われた円覚寺などの文化財を復元する計画を盛り込んだが、32軍壕の一般公開について県は「難しい」との立場をとる。

 吉田さんは言う。「県議選に立候補している人はほとんどが戦後生まれ。それでも、首里の街がどういう歴史を歩んできたのか、学び、知ってほしい」

 沖縄にはまだ、75年前の悲劇が残っている。「平和な暮らしは、沖縄戦の犠牲者の上にある。地上の城だけ再建し、地下の城を放置していれば、その時代を生きた住民をないがしろにすることになる」。琉球王朝時代の首里城と、沖縄戦で構築された地下に眠る32軍壕。「そのどちらもあってこその本当の首里の歴史だ」。戦前を知る吉田さんの横顔は厳しかった。(阪口彩子)