ひがけい子 母系リズムのウチナー打ち 「でいご娘」再結成は… <新・島唄を歩く>


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独特の島太鼓によるリズムなどについて語るひがけい子=5月、読谷村((C)K.KUNISHI)

 沖縄音楽シーンの中にあって、ファミリーグループが風靡(ふうび)した時代は見過ごせない。フォーシスターズ、糸満ヤカラーズ、屋良ファミリーズなどなど。家族ならではの空気感に加え、女性ヴォーカルによるユニゾンの説得力は、沖縄に脈々と残る母系社会の投影かもしれない。中でも特筆すべき姉妹ユニット「でいご娘」のメンバーでもある、ひがけい子率いる「ひがけい子&島太鼓」。他の和太鼓とは違う独特のテンションを醸し出している。比嘉家の末娘が芸風を極めた境地を、読谷村楚辺の「島太鼓慶鼓道場」にて聞いた。

 小浜 道場が沖縄芸能の元祖を祀(まつ)る、赤犬子宮の隣とはすごいですね。

 ひが 色々あったんですけど、こんな素晴らしい赤犬子宮の側にあるのも何かの縁としかいえない。

 小浜 生まれも育ちも楚辺ということですけど、この辺にも遊びに来た?

 ひが 元々の楚辺の集落は今のトリイステーションの中で、戦後移動させられた。小さい時、父がたまの日曜日に、ここ赤犬子宮の掃除をする為に家族みんなを引き連れてきたのを覚えてます。特別な場所だとは意識してました。

幼い頃から活動

 ひがけい子の父・比嘉恒敏(1917~73)は「でいご娘」の生みの親であり、『艦砲ぬ喰ぇーぬくさー』(以後『艦砲ぬ』)の作者である。戦後のウチナーンチュは米軍の艦砲射撃からの生き残りである、という歌詞のようなしたたかな時代を生き、平和を希求してこの作品を書いたが、復帰の翌年、米兵車との事故で命を失った。

 小浜 幼い頃から芸能活動してますけど、忙しかった?

 ひが 忙しかったです。物心ついた4歳には活動してたので半分家業。小学校時分は授業が終わると校門で父が待ってて「わじゃ小(仕事)」とか言ってあっちこっち。最初の頃は舞台の袖で見てて、最後のカチャーシーになるとステージに出てツイスト踊った。それから後にボンゴ叩(たた)いて。

 小浜 沖縄中を公演?

 ひが 離島とか県外へ行く時などは芝居の方達と一緒でした。父はよく「呼び込み太鼓をよく聴いときなさい、地謡の太鼓見ときなさい」と言っていた。

 

ひがけい子が生み出してきた多彩な曲

次々にヒット

 父の死後『艦砲ぬ』のレコードをヒットさせた「でいご娘」は積極的に活動した。曲に振り付ける民舞が流行ったこともあり、『豊年音頭』『南国育ち』も振り付けられ、新しい沖縄の歌として次々とヒットチャートの波に乗った。姉の千津子の結婚をきっかけに活動を休止するまでの5年間は「休みは1カ月に1日くらい」とけい子は振り返る。

 小浜 解散ですか?

 ひが テレビから解散の番組の声が掛かったのですが、時遅し、みんな髪をショートカットに切り落として。私は私でマリンスポーツなどに興味があったのでホテルでアルバイト。イベント企画のアドバイスしたり手伝ったりするうちに正社員に。

 けい子は一旦(いったん)芸能活動から離れるも、職を求めたホテルムーンビーチでは企画を担当するようになった。様々(さまざま)なイベントと関わり、ジャンルの違う音楽やアーティストとの交流を通して、ついには自らのアーティスト魂に火が点(つ)いた。仕事しながらも幼少期のルーティーンとして舞踊や古典音楽の鍛錬は怠らなかったのだ。そんな折、普久原恒勇師の民族音楽詩曲「響(とよむ)」にパーカッションで参加することになる。いわば琉球王朝時代の民族楽器編成のオーケストラ。

 小浜 フォーシスターズの伊波智恵子さんと「チーKコンビ」ですね。

 ひが その時のキャッチフレーズが「連弾島太鼓」。「しまでぇーく」という響きが格好いいと思った。恒勇先生に「太鼓をもっと大事にしなさい」と言われました。やっぱり芝居の太鼓を聴くとドキッとします。創作も楽しいけど、地謡の太鼓も楽しい。

 小浜 宮古のクイチャーなどは拍子が違いますね?

 ひが 4拍子でない。八重山民謡などは拍子を決めないで、頭の中で手拍子を打って感覚で叩くんです。ウチナー打ちです。

独自の太鼓

 歌うことが主体の琉球民謡において、三線や太鼓はいわゆる伴奏楽器である。神との語らいの「祈りうた」や集団での労働歌、うた遊びの場での「歌垣うた」などを基本とした調律は元来拍子がタイムアウト(変拍子)するものだ。それが「ウチナー打ち」だとしたら、まさしくそれこそ沖縄音楽の基底にある「母系リズム」とはいえまいか。

 小浜 幼い頃から培ったリズム?

 ひが そうかもしれない。我流です。

 小浜 「ひがけい子&島太鼓♪シュビーズ」は?

 ひが 1990年。最初は姪(めい)っ子甥(おい)っ子からのスタート。和太鼓ブームと重なって、今考えると何もかもタイミングが良くて。この感謝は次の世代に伝えられるかなって。

 小浜 「でいご娘」再結成は?

 ひが 98年。地元楚辺の祭りや敬老会に呼ばれて『艦砲ぬ』を歌うとみんな泣いちゃうんです。調子に乗って「民謡紅白」出場、CDリリース。いつまでやるんだろうね、みんなで言ったりするんですけど。 (小浜司・島唄解説人)
 (第2金曜掲載)

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<肝誇(ちむぶく)いうた>家族支えた母への思い

 うふやー
  作詞/ひがけい子
  作曲/喜久川ひとし

一、母(ふぁーふじ)ぬ 言葉(いくとぅば)や 想(うむ)いぬ深さ
  何時迄(いちまでぃ)ん 何時迄(いちまでぃ)ん
  何歳(いくち)なてぃん 肝(ちむ)に
  大家大家(うふやーうふやー) 石垣(いしがち)にふくぎ
  ひんぷんに赤花が涼風(しだかじ)になびく
  涼風(しだかじ)は母(ふぁーふじ) 久葉(くば)ぬ葉(ふぁ)ぬ扇(おおじ)
  育て(ふどぅいり)よ産子(なしぐゎ) 黄金産子(くがになしぐゎ)

二、心配(しわ)ぬ果(は)て無い(ねーらん) 親(うや)の想(うむ)い
  今(なま)になてぃ 今(なま)になてぃ
  後(あとぅ)になてぃどぅ知ゆる
  大家(うふやー) 大家(うふやー) 山(やま)ぬ端(ふぁ)に入り日(いりひ)
  赤々とぅ夕暮(ゆまんぎ) 夕飯時分(ゆうばんじぶん)
  空腹(やーさ)しちうらに
  寒(ひー)さしちうらに
  大人(うふっちゅ)なてぃ居(を)てぃん 子(わらび)は子(わらび)
     ~後略~

 「ひがけい子♪シュビーズ」歌う『うふやー』。シュビーズとは「すびんちゅ(楚辺の人)」のなまったもの。某沖縄そば屋のコマーシャルソングとして耳馴染(なじ)んだメロディー。不慮の事故で両親を失い、母が家族を影で支えていたことを、自分が母の年を越してしみじみと想い綴(つづ)ったという。また、どんな時も気丈だったおばあちゃん(母の母)の実家にもつながる意味で「うふやー」だという。「母」を「ふぁーふじ」と当てている。「ふぁーふじ」とは先祖のことで通常「親」をつけて「うやふぁーふじ」という。

 ちなみに「先祖」を沖縄風に「しんじゅ」と発音すると「墓」という意味になる。「ふぁーふじ」とは、奥武島出身の言語学者・中本正智(1936~94)によると、「ははおほじ」で「祖母祖父」になる。うちなーぐちは男性よりも女性の順番を先にする傾向がある。例えば「夫婦」は「ミートゥンダ=女+夫(男)+ンダ(達)」。沖縄語のリズムにも母系社会の影が見て取れる。