宮古の文化、情報を発信 人をつなぎ、学ぶ場を運営 ライター・プランナー 宮国優子さん 藤井誠二の沖縄ひと物語(14)


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 首里城が燃え落ちた。昨年10月末の未明だった。その後、私も含めメディアは「沖縄のシンボル」が焼失してしまったことで「沖縄の人々」が落胆していること、つまり、首里城は沖縄のアイデンティティであると判で押したように伝えた。たしかにそれはインタビューした人々の「声」だったし、もちろん「正解」なのだが、どこか一括(くく)りにしたような伝え方を「ヤマトの人間がヤマトから」発信してもいいものなのか。もっと「複眼」で物事を見る必要性があるのではないかと私は煩悶(はんもん)しながら、宮古島出身で東京で暮らしている宮国さんをたずねた。

人をつなぎ、学ぶ場としてコワーキングスペースを運営する宮国優子さん=東京都(佐藤類撮影)

複雑な気持ち

 「内地の人から、首里城火災で同情されると複雑な気持ちになります。“ほんとたいへんだったみたいですね”と私は答えるのですが、たしかに悲しい出来事だったんですけど、宮古島で昔は人頭税を琉球王府から取られる側であって、首里城はその権化です。だから、沖縄出身の誰もがシンボルとは思っているわけでもないし、いろいろな思いがあるはずです。なかなか説明しても難しいけど」

 そう言って彼女は腕組みをした。沖縄と一言でいっても、大小さまざまな島で構成されている。歴史も文化も異なり、離島のことを学べば、宮国さんが言うように抑圧した側と抑圧された側の史実が横たわっていることがわかる。

 1609年に琉球王国は薩摩藩に侵略・支配された。重税を課され財政的に困窮した琉球王府がその後、先島地方などへ厳しい税を課したのが人頭税である。抑圧の背景にはさらなる抑圧があった。

 「私は宮古島に対して基本、ラブはあるけど、ライクはない。自分の島だからアラも見える。だから今は東京に住んで、宮古島と行き来しています。でも私に対しては東京ではざっくり“沖縄の人”という立場で話しかけられる。私の”沖縄”に対するスタンスはわかりづらいと思う」

渡米後、東京へ

出身地の宮古島について東京で発信しているライター・プランナーの宮国優子さん=東京都(佐藤類撮影)

 宮古の高校を卒業したあと、3年間ほどアメリカで暮らした。当時1990年代前半は宮古島では若い人に仕事の選択肢は少なく、役所に勤めるなど、島にいる限りはコースが限られていた。

 「高校のとき夏休みに那覇にある高等予備校にみんな行くんです。そしたら、まったく言葉が通じなくて。相手は私を顔を見て一方的にしゃべりかけてくるんだけど、ニュアンスがつかめなくて私は何を言ってるかわからなかった」

 それがアメリカに渡った大きな理由の一つだが、自分がやりたい、いずれは宮古島の貢献へつながる仕事ができるのはやはり東京だと思い、移り住んだ。

 「アメリカで宮古島のことをいろいろ聞かれても、自分が宮古の歴史について知らないということを自覚しました。地球儀を見ると宮古島は載ってなくて衝撃を受けたし、いったいここはどこなんだって思った」

 宮国さんは東京に移り住んできたあと、法政大学の沖縄文化研究会に関わりたくて電話した。沖縄文化研究所は、沖縄が本土に復帰した1972年に設立された、琉球弧の歴史学、言語学、民俗学、文学、考古学等から研究している沖縄研究の名門である。沖縄学の父と呼ばれる、民俗学者の伊波普猷資料などを所蔵していることで知られている。

 「そうしたら研究者以外は入ることができないと断られたんです。当時、私は何の肩書もなかったし」と宮国さんは笑い飛ばすが、「3回目に電話したら大学の改革と担当者の理解があって訪ねることが出来ました」。いまは100名ほどが所属している沖縄文化研究会研究員の肩書を持っているが、宮古島を専門としている会内の宮古研究会に属する人は数えるほどしかいない。けっきょく宮古島についての研究論文はべつの大学へ共同研究者とともに出した。

 22歳ぐらいから宮古毎日新聞の東京通信員として、東京でただ一人の記者として働いた。そのとき、宮国は「ジャパンアクションクラブ」の映像部で働く身でもあった。出版社などを受けまくっていたが、たまたま宮古島の友人のつてでそこに入った。宮古毎日の記者としては、宮古島にある国立療養所・宮古南静園の患者や家族が国などを相手に起こした訴訟や、小泉元首相が宮古島のマンゴーを絶賛したことなど、宮古島に関する東京発のニュースなら何でも書いた。

さいが族

 いま宮国さんは東京の大田区大岡山で、コワーキングスペースを5~6年前から運営している。コワーキングと書くと、ちょっとニュアンスが違う。本人に言わせると、「ただの“場”です」。たまたま宮古島の有名なライブハウスが東京に支店を出すことがきっかけになり、紆余曲折を経て、この場がある。もとはバーだったのをそのまま居抜きで使っているのだが、壁には宮古島関係の本がぎっしりつまり、幼い子どもが遊んでいる。キッチンでは若い男性が食事を作っていた。ここはなんと形容したいいのか。

 「勝手にお酒を飲みたい人は飲んで、お金を籠(かご)に入れたりして、自由に使っています。複数で運営している、フリースペースですね。トークライブや上映会をやったり、皆で話し合うための場です。私は自分が信用できる、私とコミュニケーションできる人とつながって学び合いたいから」

 『読めば 宮古!』というコラムブックを中心になって、沖縄の出版社「ボーダーインク」から「さいが族」という名前で出版、宮古島でベストセラーになった。「さいが」というのは標準語だと「~でしょ?」という意味の宮古島の方言だ。

 「専門」や「肩書き」をあえてつくらない生き方を選択してきたが、これからは宮古島の物産品をITを使って全国に適正な価格で売り出すプランナーとして走り回る予定だ。

 宮国さんの次女は、母親の母校の中学に通い、そして高校も宮古島の高校を受験、合格した。宮国さんは無理強いも薦めてもいない。本人の希望だった。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

みやぐに・ゆうこ

1971年生まれ。2015年、片岡慎秦氏と共同執筆で「宮古島最古の映像に関する一考察」を日本大学文理学部人文科学研究所「研究紀要」(第89号)に発表。2002年、『あららがまパラダイス読本 読めば 宮古!』を中心になって執筆・編集。16年、一般社団法人を立ち上げ、『島を旅立つ君たちへ ふるさと、ばんたがみゃーく』を編集・発行。

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。