自由な感性で「色使い」 米で修行、絵で生きる決心 画家・町田隼人さん 藤井誠二の沖縄ひと物語(15)


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 私の仕事場には町田隼人さんの作品が2点、無造作に立てかけて置いてあるが、部屋のどこにいても、大きさがポスター大のせいもあるけれど、町田さんの描いた「女性」たちと目が合う。彼の初期作品であるそれらの絵を見ていると、ぼくはある取材の記憶の中に引きこまれる。拙著『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(講談社)の取材のために足を棒にしながら歩いた沖縄の夜。そこで出会ったたくさんの女性たちの表情や声、煙草(たばこ)を吸う横顔、香水の匂(にお)い。それらの記憶は今も鮮やかだ。

 2019年4月に宜野湾市の旧真栄原新町にあるギャラリー「PIN―UP」で町田さんが個展を開いていることをSNSで知った。ギャラリーは売買春が行われていた平屋の安普請の建物の原型を残しつつ、リノベーションしたもので、オーナーの許田盛哉さんは本欄でも御登場いただいたことがある。

自宅内のアトリエで作品に囲まれる町田隼人さん=2月27日、宜野湾市野嵩(ジャン松元撮影)

背中押され

 「大学をその年の3月に卒業して、卒業展示みたいなものを県立美術館の県民ギャラリーでさせてもらって、そのときのフライヤーを『PIN―UP』さんのポストにあいさつ文を添えて投函(とうかん)しておいたら、あとから許田さんから翌月がちょうど空いているんでどうですか、という話をいただいたんです」

 大学を卒業したばかりだし、ギャラリーの展示の仕方なんてわからない。でも、自由にやってほしいという許田さんの言葉に背中を押された。同時にその過程で真栄原新町の成り立ちの背景や歴史を初めて知ったのである。

 「街は普通の住宅地とはあきらかに違う雰囲気だったからピンときたのですが、ここが戦後から続く売春街だった歴史をちゃんと知らなかったんです。だけど、どうせここでやるならば、ここにしかない理由がほしいなと思って、もともと女性の作品を描いていたので、それをメインにしたんです。作品はコンセプトをつくって描いてはいますが、真栄原新町でこの絵を出すことによって、見る人はどう反応するのかなと興味がわいたんです」

独自の磁場

活発な創作活動でアーティストとしての道を着実に歩む町田隼人さん=2月27日、宜野湾市野嵩(ジャン松元撮影)

 アートと、それを展示する場所や土地の磁力が融合し、えも言われぬ意味を纏(まと)うことがある。私が浮き足立つ様に彼の絵に反応したのはまさに町田さんの狙い通りだったわけだが、「藤井さんの本でも勉強しました。びっくりしました」と真剣な眼差しで言った。

 「ぼくのような若い世代や、上の世代の人たちでもここがどういう街だったかを知らない人はぼくのアートを通じて歴史に気づいたりする。知っている人は、消えてしまった街の歴史とアートをリンクするとどうなるのか。アートは見る人の感性によって意味合いが違ってくるのは当たり前ですが、街の空気がそれまで作品になかった意味を持たせてくれたと思っています」

 アートそのものが持つ力だけでなく、置かれている場所と溶け合ったり、反発し合ったりすることによって、独自の磁場が立ち上がる可能性がある。そのいい例を町田さんは体験した。

 「小さいころから絵で生きていけたらなあと思っていたのですが、東京の美大は学費は高いし、生活費もかかります。親はアーティストなんて不安定だと反対していて、公務員になりなさいと言われてました。高校のときは、三者面談用の職業希望欄には適当に公務員だと記入してごまかしてました」

 そう町田さんは笑うが、幼いころから「ぬり絵」のような、図柄に独自の色を配していくのが好きだった。「問題意識」を描くことで身体を透過させ、外側に放出することは呼吸をするようなものだった。

 「県内で県芸(沖縄県立芸大)を目指そうと思って、予備校でデッサンをやったんですが、色を使わない作業がまったく楽しいと感じられなくて。高校のときTシャツをデザインして売っていた経験もあったので、いったんは経営やマーケティングを勉強しようと別の大学へ入学したんです」

ニューヨークへ

 とはいえ、絵を描くのはやめられない。それを食いぶちにしていく自分の希望が本物なのかどうか、自分でも判断しかねていた。

 大学を1年間休学して半年間、働きながら英語の勉強をして、残りの半年はニューヨークで絵の勉強をした。沖縄出身の現代美術家を通じて世界から集まっている若きアーティストたちともつながることができた。

 「沖縄で同世代と集まって話すと、昔の武勇伝とか過去のことばかりだったのに、ニューヨークのアーティストたちは次のステップ、未来の話でいつも盛り上がっていた。ぼくは絵を描くことはやめられなかったし、趣味で絵を描いていくという思いは消え、ポップアートで生きていく決心がついた」

 「沖縄的な色使い」とよく評される。が、本人はどこかピンとこない。「色使いは感性のおもむくままにやって」いるからだ。

 「東京でぼくの作品を高く評価してくれた審査員の方が、沖縄の自然の風景とか見て育っているからじゃないか?と言ってくださってありがたいのですが、ぼくは北谷出身なので人工のきれいなビーチはあるけど、自然豊かなやんばるなどは遠足ぐらいでしか行ったことがないんです。もちろん自然は大好きですけど、人工的な沖縄の中で育ったんです」

 敬愛するアンディ・ウォーホルを彷彿(ほうふつ)とさせる首里城の連作は、同じ図柄の首里城に色や模様でバリエーションをつけた。「売り上げの一部を寄付しますって、ぼくがひねくれているからかな、なんか利用しているみたいで」、オークションで買い手に値をつけてもらい、売り上げは全額、寄付をした。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

まちだ・はやと

 1995年、北谷町生まれ。幼少の頃より絵を描くことが好きで、大学入学後、アート留学でニューヨークへ渡り本格的にアートを始める。2019年、沖縄国際大学産業情報学部企業システム学科マーケティング専攻、卒業。同年、沖縄国際大学・学長賞。「ターナーアワード2018」未来賞受賞。主にアクリル絵画を制作。18年6月に県立博物館・美術館にて「FROM ME TO YOU~沖縄から世界へ」で 美術館初個展。17年、ニューヨーク「BASSANOVARAMEN」、19年、「STOCK ROOM GALLERY KOZA」等で個展。

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。