日本軍トーチカ(読谷)銃眼の前、兵士の思いは…米軍上陸前に放棄<記者が歩く戦場の爪痕>


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壕の中で中田耕平さん(右)に当時の様子を語る池原玄夫さん。右側の長方形にくり抜かれた部分が銃眼=15日、読谷村楚辺の吉川原海岸

 午前9時ごろの干潮時を狙い、読谷村楚辺のユーバンタ浜に近い吉川原海岸に残る壕を目指す。足元のごつごつとした石灰岩の岩場には、びっしりと緑色の海草がへばりついている。靴底に刺すような痛みを感じながらも慎重に前へ進むと、海岸に突き出た岩の突端が見えてきた。波打ち際で大きな口を開いているように見える暗闇に足を踏み入れると、そこには日本兵が海食洞窟を利用して構築したトーチカ(陣地壕)が広がっていた。

日本軍が波打ち際の岩場に構築したトーチカ(中央右側)は遠目からは入り口が分かりづらい

 戦前戦後の楚辺集落を見つめてきた池原玄夫(げんお)さん(85)と、村史編集係の中田耕平さん(40)の案内で15日、干潮時にしかたどり着けない海岸壕を訪れた。

 読谷村では1943年夏ごろから日本軍による北飛行場(読谷補助飛行場)建設が始まり、村には多くの日本軍の部隊が駐屯した。中田さんによるとトーチカは44年に造られた。演習で使用されたが、45年4月1日の米軍上陸時にはすでに放棄されていたという。

 年月を経てもなお、その姿を保つトーチカ。海に面した前面は積み石で囲み、一部はコンクリートの壁で支えられている。そこに左右二つの銃眼がくり抜かれている。奥行きのある壕内部は薄暗く、ひんやりと冷たい。壁の所々に「JESUS SAVED」などとペンキで書かれた英文字が見える。戦後に施された落書きなのか。中田さんは「貴重な戦跡は本来そのまま保存されるべき」だと指摘する。

楚辺の海岸から上陸する米第1海兵師団。海上に並ぶ無数の黒い点は日本軍が設置した木の杭=1945年4月1日(県公文書館所蔵)

 壕の内側から銃眼の前に立ち、海の方をのぞいてみた。75年前、日本兵はここからどんな思いでユーバンタにきらめく海を見ていたのだろうか。勝利の確信か激戦への覚悟か、それとも恐怖心だったのか。波音に耳を傾けながら想像してみたが、答えを知る由はない。

 「戦前はこの海でよく遊んだよ。とても静かで、子どもだけの秘密の場所だった」。池原さんは壕を背に、海原を見つめながら記憶をたぐり寄せる。その先にあるのは、米陸軍トリイ通信施設にのみ込まれた生まれ故郷の旧楚辺集落だ。

 村内には当時リュウキュウマツがたくさん生えていて、日本兵はこの松を切り倒し杭を作り、楚辺の海岸沖合に無数に打ち込んだ。米軍艦の接近を妨げる目的だったが「一瞬でバタバタとなぎ倒され、何の役にも立たなかった。力の差は歴然さ」。池原さんは避難していた旧集落内のヤギ小屋から、海上を埋め尽くす米軍艦や、それを目がけて低空飛行する特攻隊の姿を目撃していた。家族と村内を逃げ回ったが、4月上旬に村伊良皆で米軍に保護された。

 「もし米軍上陸時に日本軍がトーチカに残っていたら、読谷はもっと被害を受けていただろう。故郷は奪われたが、命が助かっただけでもありがたい」。池原さんの言葉に、胸が締め付けられた。

 透き通る海や美しい夕日を背景に、人気の観光地となった読谷村。ただ、踏みしめる一歩一歩には凄惨(せいさん)な歴史が刻まれていること、復興への道を切り開いた先人の底力が横たわることを、決して忘れてはならないと痛感した。


<メモ>吉川原海岸の陣地壕(トーチカ)

 米軍の上陸に備え、潮流や波で岩が浸食された海食洞を利用し日本軍が構築した陣地壕。海から迫る米艦船への攻撃を想定していたが、持久戦を選んだ日本軍が水際決戦を避けて本島南部へ移動したため、上陸時に使われることはなかった。


<記者の目>戦の実相語る戦跡の役割大 当銘千絵(中部支社報道部)

当銘千絵(中部支社報道部)

 沖縄戦で米軍上陸地となった読谷村。これまでチビチリガマや戦後の土地接収などについて調べたことはあったが、今もひっそりと波打ち際に残るトーチカの詳細は初めて学んだ。村にはまだまだ語られていない多くの戦争の爪痕が残っていると実感した。

 今回、当時を鮮明に記憶する池原玄夫さんに現場で話を聞くことができ、貴重な経験となった。戦争体験者が減る中で、当時のたたずまいを保ち沖縄戦の実相を語り掛けてくる戦跡の果たす役割は大きい。“物言わぬ証言者”を一つでも多く訪れたい。

 (2016年入社、37歳)