ヌヌマチガマ(八重瀬町新城) 野戦病院の分院、白梅学徒が傷病兵看護 全長500メートルに朝鮮人軍夫や慰安婦も<記者が歩く戦場の爪痕>


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戦時中使用され、赤さびた状態で残ったくわやつるはしを指差す松永光雄さん=8日、八重瀬町新城のヌヌマチガマ

 6月上旬、照りつける太陽の下、野菜畑が広がる八重瀬町新城ののどかな場所にあるヌヌマチガマを訪れた。八重瀬町在住で、沖縄鍾乳洞協会理事や平和ガイドを務める松永光雄さん(66)が案内してくれた。

 ヘッドライトを装着したヘルメットをかぶり首にはカメラ、手にはノートとペンを持った。駐車場の一角にあるフェンスの扉を開け階段を下りていくと暗いガマの入り口が現れた。一瞬、たじろいでしまうくらいガマは特異な空気に包まれていた。

 琉球石灰岩でできた全長約500メートルの自然洞窟。ライトをつけてまず左右に分かれている入り口を右側に進んだ。足元はぬかるんでいる。黄土色で粘土状の土が靴底にねっとりとまとわり付く。

 突然、松永さんが天井を指さした。「黒いでしょ」。顔を上げると、黒く焼け焦げた跡があった。「戦時中、かまどを使っていた場所。すすの跡で黒くなっている」と説明する。当時の痕跡に触れ、75年という時間が少し縮まった気がした。

 ヌヌマチガマは1945年4月下旬、第24師団第一野戦病院の新城(あらぐすく)分院として使われた。6月3日に病院が閉鎖されるまで使用された。壕の東側はガラビ壕と呼ばれ、中でつながっている。

 「沖縄県史各論編第6巻 沖縄戦」によると、戦時中、ガマには軍医、看護師、衛生兵がおり朝鮮人「軍夫」や「慰安婦」もいたとされる。白梅学徒隊の女学生5人が動員され、炊き出しや洗濯、負傷兵などの対応に追われた。次々に運ばれてくる傷病兵が、多い時で千人以上いたという。「沖縄戦の全女子学徒隊―次世代に残すもの それは平和」(青春を語る会編)には当時、新城分院に白梅学徒だった仲地政子(旧姓・崎間)さんの証言がある。「一日に何十人と送られて来る患者の数。目まぐるしい忙しさ。負傷者の呻(うめ)き声。『こら、俺は1週間も包帯交換をしていないぞ。お前達は何をしているんだ』と怒鳴り散らす将校患者。『看護婦さん水を下さい』とか細い声で哀れみを訴える人」

 仲地さんは睡眠不足と衰弱しきった体で駆けずり回ったという。

ガマの中には茶碗のかけらや中に薬品が入ったままのアンプル(中央)やバイアル(右から2番目)などの医療器具も残っていた=8日、八重瀬町新城のヌヌマチガマ

 多湿のガマの中。気がつけば首筋や背中からじっとりと汗が噴き出していた。入り口から数十メートル進み、ライトの明かりを消してみた。暗闇が広がる。1メートル離れた隣にいる松永さんの姿も見えなかった。

 来た道を引き返し左側の入り口に進んだ。天井から光が差す場所には、当時のつるはしやくわがあった。壁にもたれ赤茶色にさびて残っていた。注射に使う薬品が入ったままのアンプルなどの医療器具もあった。歩けない患者はここに取り残され、青酸カリの入った水を飲まされ、注射を打たれ、または銃殺されるなどして500人ほどが息絶えたという。

 当時のおぞましさを想像した。汗がさらに噴き出してきた。思考が整理できないままガマを出た。白いノートが手に付いた汗と土でにじみ、黄土色になっていた。文字だけではない現場の記録となった。松永さんは「現場を見た人が勇気を持って話し合うこと。それが平和への第一歩だよ」と語り掛けた。


<記者の目>記録どう残す 気概問われる/照屋大哲(南部報道部)

照屋大哲(南部報道部)

 ヌヌマチガマは暗く蒸し暑かった。千人以上がひしめき合っていた当時を想像すると、息苦しくなった。沖縄戦体験者の証言を直接聞ける機会はいつか必ず途絶える。それでも沖縄戦を風化させるわけにはいかない。ヌヌマチガマを始め県内各地にある戦跡に足を運び、学びたい。

 沖縄戦から75年がたち、きな臭い時代になってきた。戦争につながるあらゆるものを拒否し続ける力が平和につながる。

 風化の波にあらがい、沖縄戦の記録を残す気概と工夫が自分自身に問われていると感じた。

(2017年入社、32歳)