沖縄食糧創立70周年 米の自由調達維持に全力 「公益性」胸に苦難越え


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沖縄食糧の倉庫に運び込まれる、ビルマ(現ミャンマー)から買い付けられた米=1955年ごろ(沖縄食糧提供)

 沖縄食糧(浦添市)は1日で創立70周年を迎えた。沖縄戦直後の米統治時代に米の配給を沖縄民政府から移管され、住民の「生命線」を維持するために米の確保に東奔西走した。沖縄の日本復帰以降は自由な米の調達維持に力を注いだ。70年の歩みを振り返る。

 沖縄食糧は1950年7月1日に誕生した。直前まで半官半民の「食糧公団」として創立の準備が進められていたが、同年6月20日、民間流通機構の発達を目的とした米軍の指令を受け、民間株式会社としてスタートすることになった。

 初代社長に就任した竹内和三郎氏は創立総会で「第一の、そして最大の重点はあくまでも民衆の福祉におかなければならない」と話し、公益性を強調した。言葉通り、米を確保するために竹内社長自らビルマ(現ミャンマー)やタイなどを回り、交渉に当たった。

■日本復帰後の難題

 72年に日本に復帰すると難題に直面する。沖縄では63年に琉球政府が食糧政策を変更し、外国産の米を各企業が自由に買えるようになっていた。一方、日本では米の生産、流通、販売を国が管理する「食糧管理法(食管法)」体制で米の輸入を認めていなかった。

 復帰と同時に食管法を適用すれば、自由な輸入によって安かった沖縄の米価格が上昇し、消費者の経済的負担につながる。さらに食管法では地域ごとに営業所数が定められていた。沖縄では自由販売によって人口当たりの小売店は全国の約10倍と多く、食管法を規定通りに当てはめれば多くの卸販売営業所や小売店の統廃合を引き起こすことが予想された。

 復帰による激変緩和を目的とした復帰特別措置により、本土並みの米価格への段階的な引き上げと独自の流通制度の維持が認められた。その間に、沖食など県内米穀業界は国と折衝を続けた。

 既に全国的に米は必要量を上回り供給超過に達していたこともあり、69年には自主流通米が始まり自由化への潮流が生まれていた。82年の食管法改正で配給制度が廃止され、88年に沖縄に食管法が適用された際にも、農水省は沖縄の流通システムの維持を認めた。2004年には米の流通が原則自由化されるなど、最終的には「本土の沖縄化」が達成された。

■自社検査導入

 2011年、東日本大震災による福島原発事故が発生。福島県産の米に対する不安が高まった。1982年に自主流通米の融通を受けてから長年にわたり福島産米を販売していた沖食は、放射性物質の自社検査を決めた。国の基準よりも厳しい基準を設け、数値をホームページ上で公開することにより安心でおいしい米を打ち出し、風評被害の払しょくに努めた。

 現在では売り上げも原発事故前の水準に戻っているという。当時総務部長だった中村徹社長は「あの時は本当に大変だった。徹底した検査で安心安全を見えるようにしたことが大きかった」と話した。
 (沖田有吾)