胎内被爆 傷痕今も 一家、広島爆心近くに 「父のように…」後遺症おびえ 中原 冨美子さん(那覇市、74歳)


胎内被爆 傷痕今も 一家、広島爆心近くに 「父のように…」後遺症おびえ 中原 冨美子さん(那覇市、74歳)
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 原爆が投下された翌年に広島市で生まれた中原冨美子さん(74)=那覇市=が母から胎内被爆の事実を知らされたのは20年ほど前。「うすうす知っていた。自分も父のようになるのではと怖かった」。動けなくなった父を前に、被爆の後遺症への不安から押しつぶされそうになったこともある。戦争の傷痕が残る自分自身と向き合う一方、沖縄に残る戦争の傷跡には拒絶反応を示す。

 1945年8月6日午前8時15分、米軍は広島市に原爆を落とした。中原さんの父隆明さん、母カズエさん、祖母カツエさん、兄康司さんの4人が住んでいた同市富士見町は市中心部で、爆心地から1キロほどしか離れていなかった。爆発で隆明さんが家の下敷きになり頭にけがをしたことを除き、一家は無事だった。

 周囲は、ほとんどががれきと化した。カズエさんら3人は近くの比治山に避難し、隆明さんだけはつぶされた家に残った。周囲は遺体の山。原爆で亡くなった人々を葬るため、隆明さんは何日も遺体を運んだという。

 「あれが原因かもしれない」。中原さんが高校生になったころ、父は脳の疾患で寝たきりになった。被爆との関連は分からないが、カズエさんは被爆した多くの遺体を運んだことが原因ではないかと疑った。

 その頃から中原さんは貧血になった。「ものすごく気分が悪くなることが多くなった。保健室の常連だった」。カツエさんも入退院を繰り返し、カズエさんは2人を看病しながら、隆明さんの代わりに表具屋を切り盛りした。

 中原さんは二十歳をすぎ、1度目の結婚で身ごもった。同時に椎間板ヘルニア、腎炎、てんかんを次々と患った。1年間入院し、やっとの思いで出産した。だが、間もなくして夫とは死別した。

 生まれた息子を養うため、視力が弱かった中原さんは、はり師になろうと福岡にあった、はり・きゅうの専門学校に通った。そこで沖縄出身の男性と出会い結婚した。

 父、隆明さんの病状は悪化していた。「おー」「おお」。隆明さんはほとんど動けなくなり、言葉にならない声を発するだけだった。椅子に座布団でぐるぐる巻きにし、流動食を食べさせた。中原さんは自分の誕生日から、胎内被爆だと気付いていた。「怖い」。同じようになるのではと不安に襲われた。

 隆明さんは60歳を過ぎて亡くなった。父の介護に苦労した母カズエさんに「やっと楽になったね」と中原さんは声を掛けたが、カズエさんは「もっと長生きしてほしかった」と返した。そんな母から「被爆者手帳を取っておいて」と言われたのはその後だ。

 カズエさんは中原さんに胎内被爆だったことを伝えていなかった。「被爆者」というだけで結婚に苦労する女性がいたことから、中原さんは「不利になると思い隠したはず」と振り返った。2002年2月、被爆者健康手帳を受け取った。炎症で真っすぐに伸びない指を見つめながら「これが私だと思っている」と受け入れる。

 戦争から75年、傷痕は今も中原さんに残る。夫が亡くなり、今は沖縄で暮らす。「夫の父は米軍と事故に遭い、見舞金だけで泣き寝入りした。なんで外国の軍隊が平気で訓練しているのか」。戦争の傷跡ははっきりと見える。

 (仲村良太)