「ペルーと沖縄の架け橋に」 祖母の影響、民謡に触れ 県系3世ルーシー長嶺<新・島唄を歩く>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
「ペルーと沖縄の懸け橋になりたい」などと思いを語るルーシー長嶺=6月、那覇市小禄((C)K.KUNISHI)

 沖縄は移民の邦。沖縄にルーツを持つ海外のウチナーンチュからもたらされるサウンドやリズムも、沖縄音楽の多様性と醍醐味(だいごみ)を生み出しているといっても良い。1993年、アルベルト城間率いるディアマンテスの「オキナワラティーナ」が、内外で爆発的に活躍している頃、同じくペルー生まれのオキナワ系3世が、三線を学ぶために沖縄へやってきた。ルーシー長嶺である。

 

 小浜 ペルー生まれ、ペルー育ちですか?

 

 長嶺 おじいちゃんとおばあちゃんが結婚して出稼ぎに行って、戦争が起こって帰れなくなって。うちの父は沖縄に戻ったけど、おじいちゃんが亡くなって呼び戻されて、私はペルーで生まれた。3世です。

 

 小浜 元々は小禄?

 

 長嶺 両親とも小禄。母も2世です。

 

沖縄民謡に触れ

 

 日本からのペルー移民は1899年が最初であるが、沖縄県は1906年に初めて送り出した。「いったん開始されると、その伸びは実にめざましいものがあった」(「沖縄県史」)

 

 沖縄県人のペルー移民の歴史はハワイに次いで古く、日系人の7割を占め、その数はブラジル、アメリカに次いで3番目に多い。ペルーの首都リマの平均気温は20度。夏(1月~3月)は約26度、冬(7月~8月)は約15度で、雨はほとんど降らない。

 

 小浜 ペルーは住みやすい?

 

 長嶺 食べ物も豊富で気候も良くて、住みやすいけど、治安がちょっと悪い。

 

 小浜 リマですね。何か商売を?

 

 長嶺 レストラン。24時間レストランでした。

 

 小浜 音楽環境は?

 

 長嶺 私、一番最初に触れた音楽は沖縄民謡でした。おばあちゃんが沖縄恋しいからと、家の中は民謡ばっかり流れていた。模合とかお祝いがあると、いつも連れて行かれて、おばあちゃんが三線弾いて、私は椅子(いす)に立たされて歌っていた。涙を流す人もいた。

 

カラオケ大会優勝  

 

 ルーシーによると、ペルーでもウチナーンチュは模合を盛んに行い、それを元手に商売を始めたりするという。祖母・和子に連れて行かれた、模合の席での言葉はほとんどウチナーグチで、理解できなかった。家ではスペイン語で話したが、祖母は怒るとウチナーグチが出たという。そんな祖母が通う三線教室にルーシーもついて行くようになり、自然に三線に親しむようになった。

 

 小浜 チンダミ(調弦)もすぐにできた?

 

 長嶺 はい。みんな喜ぶものだから「これも覚えなさい、これもいい曲だから」と、おばあちゃんが次から次から選曲してくれた。

 

 小浜 最初は歌謡曲だと伺いましたが?

 

 長嶺 そうそう。15歳の時に日系人協会から「カラオケ大会」の誘いがあって、おばあちゃんが沖縄民謡より歌謡曲がいいと。それで伯父さんが美空ひばりのカセットテープを持ってきた。運良く優勝してからブラジルにいったんですよ。

 

ファーストアルバム「にぬふぁぶし」などルーシー長嶺が出してきたCD

東京から沖縄へ  

 

 スペイン語しか話せなかったルーシーは、テープの音を独自の音感で覚えて習得していく。1993年、全日本カラオケ審査協会の大会にペルー代表として参加。その後、周囲の勧めで歌手を目指して東京で暮らすことに。プロのレッスンを受け、オリジナルテープで各県を回って広報活動をして、テープを売ったりもした。「協会の会員さんが5万人くらい。とてもきびしかった」と、ルーシーは振り返った。

 

 小浜 東京にはどれくらい?

 

 長嶺 1年くらい。ペルーに帰ろうかと思っているときに「沖縄に住んでみたら、三線も日本語の勉強もできるから」と親戚に呼ばれた。

 

 沖縄に移り住んだルーシーは従姉妹(いとこ)が経営するスナックの手伝いをしながらも早速三線を習い始める。古典音楽の教室に通い、先生の紹介で大城志津子師の門を叩(たた)くこととなる。ルーシーは嬉(うれ)しかった。ペルーではテレビやビデオでしか出会えない芸人たちが志津子先生の傍(そば)に居て、技術面や歌詞の意味をウチナーグチで優しく説明してくれるのだから。

 

 八重山民謡を学ぶようになり、三線音楽の深さを知るにつれて充実感が増し、気がつくと、琉球古典音楽、琉球民謡、八重山古典音楽と、全てのコンクールにおいて最高賞を受賞、教師、師範の免許を手にしていた。2010年、ファーストアルバム「にぬふぁぶし」をリリース。南米大陸の風を感じさせる、沖縄民謡は今や多くのファンを獲得している。

 

 小浜 CDリリースに至った経緯は?

 

 長嶺 出会いがあって、周りが応援してくれて。外国から来てウチナーグチも分からないのに歌えるのかなって。でも素直な想(おも)いでこれまで習ったものを吹き込みました。

 

 最後に「ペルーと沖縄の懸け橋になりたい」と、ルーシーは嬉しそうに笑った。

 (小浜司・島唄解説人)

 

――――――――――――――――――――――――

<肝誇(ちむぶく)いうた>

祖母からの教訓歌

 てぃんさぐぬ花

 沖縄民謡

  スペイン語訳/ルーシー長嶺

 

一、てぃんさぐぬ 花や  (訳・鳳仙花(ほうせんか)の花は)

  爪先に 染みてぃ  (爪先に染めて)

  親ぬ ゆしぐとぅや  (親のいうことは)

  肝に 染みり  (心に染めなさい)

二、天ぬ 群り星や  (天に散らばる星は)

  読みば 読まりしが  (数えることもできる)

  親ぬ ゆしぐとぅや  (親のいうことは)

  読むみや ならん  (数えることはできない)

三、Con la flor del tinsagu tines las unas de tus m anos Las ensenan zas de tus padre s tinelas en tu corazon

 

 ルーシー長嶺が祖母からまさに子守歌として聴いていた歌が「てぃんさぐぬ花」だ。この美しい旋律を大切にし、アルバム「にぬふぁぶし」ではスペイン語でも歌っているが、異国の言葉ながらとても心地よく響く。普久原恒勇氏は「8小節にきちんとまとまっていることからして、洋楽の影響を少なからず受けた、そんなに古くない曲であろう」と語っている。

 

 「てぃんさぐ」とは鳳仙花(ほうせんか)を指し、その実に触れると、種がパチンと弾けて飛んでしまう。花言葉は「私に触れないで」。また「全国方言辞典」によると、宮崎や鹿児島の方言では「とっしゃご、とびしゃご」と呼ぶという。「しゃご」とは「真砂=砂」の意で、飛ぶ砂(種)すなわち、てぃんさぐは、種が弾け飛ぶ様から命名されたようである。爪先に染めるには、赤い花を擦りつぶし、それにドーサー(明礬(みょうばん))を溶かし爪に塗る。そして鳳仙花の葉で爪を巻いて縛り、一晩眠り、翌朝解くと綺麗(きれい)に染め上がるという。

 

※注「tines」「unas」「tinelas」の「n」は上に「~」 ※注:「ensenan」の5文字目の「n」は上に「~」