米陸軍が管理する那覇軍港は沖縄の日本復帰以前から、物資の集積や輸送の拠点として役割を果たしてきた。ベトナム戦争期には那覇軍港から派遣された兵士もおり、重要な後方支援拠点だった。沖縄の中心地の那覇市にありながら米原子力潜水艦が寄港し、放射性物質の汚染が問題化した時期もある。
1968年に米原子力潜水艦が那覇軍港に入港したが、停泊した周辺海域から放射性物質コバルト60が検出され、周辺住民に不安を与えた。この問題については沖縄の日本復帰後の国会答弁で、政府が分析の結果、汚染の事実を認め、原潜由来とみられるとの見解を示している。
那覇軍港は沖縄の戦後史を象徴する“現場”にもなった。72年5月、日本復帰に伴うドルから円への通貨交換では、540億円の日本円を積んだ海上自衛隊の輸送艦が那覇軍港に寄港。回収したドルを本土に持ち帰るまで周辺では厳重な警戒態勢が敷かれた。
日本復帰を経て沖縄に駐留する陸軍兵力は削減され、ベトナム戦争後は那覇軍港に軍艦が激しく出入りすることもなくなった。50年代に那覇軍港から普天間飛行場を経由して嘉手納村(当時)まで敷設された送油管(パイプライン)は復帰後に移設条件付きで撤去され、本島中部の基地に燃料を供給する機能もなくなった。沖縄最大の軍港としての位置付けは米海軍のホワイトビーチ(うるま市)に移り、70年代半ばの琉球新報には那覇軍港の「遊休化」を指摘する記事が出ている。