世界のウチナーンチュを一つに 「交流、点から面に広がった」<つなぐ島の心(下)>


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第1回世界のウチナーンチュ大会の様子を振り返る翁長巳酉さん=17日、那覇市

 那覇市牧志のブラジル料理店「PungaPonga(プンガポンガ)」の経営者、翁長巳酉(みどり)さん(59)は、1990年に開催された第1回世界のウチナーンチュ大会への参加をきっかけにブラジルへ渡り、サンパウロ市で12年間(90~2002年)暮らした。

 第1回大会当時、翁長さんは東京のサンバカーニバルで演奏していた経験があったことから、県に国際通りのパレードへの出場を依頼された。「ブラジルからの参加者の列で盛り上げてほしいと頼まれた。国際通りで自由に何でもできそう、と参加を決めた」と振り返る。

 パレードにはサンバチームの打楽器担当として出場、チームには東京から来たダンサーや海外への移住経験がある県民もいた。「こんな小さな離島の沖縄に海外移民の2世や3世が、先祖の思いを背負って『里帰り』していることが感動的だった」と大会を振り返る。

 翁長さんはパレードの途中でブラジルからの参加者と友達になり、後の移住につながった。「友人に誘われ、本場でサンバチームの練習も見たかったので、大会後、一生懸命貯金し、ブラジルへ渡った」。現在も翁長さんは年2回ほど、ブラジルに興味がある人を現地に案内し、台湾の学生にサンバの演奏を指導するなど、ブラジルと深く関わっている。

 翁長さんは「大会は世界のウチナーンチュを一つにした。交流が点から面に広がった」と意義を語る。今、海外の若い県系人は沖縄の歴史や文化にも興味を示しているという。「ブラジルにいた頃、当時の若者がしまくとぅばを勉強することはあり得なかった」と若い世代の沖縄に対する関心の変化を説明する。来年開催予定の第7回大会について、翁長さんは「若者の大会を若者たちに運営してほしい。例えばしまくとぅばだけのショート劇や沖縄をイメージした創作コスプレなど、できることはたくさんある。世界の若者が沖縄を土台につながってほしい」と願った。
 (呉俐君)