歴代最長となった安倍政権は、沖縄と政府、日本本土との間にどのような変化をもたらしたのか。第2次安倍政権以降の7年8カ月の間には、政権と県政、本土と沖縄の関係のありようを象徴するいくつかの出来事や言葉があった。
2012年12月の政権発足から1力月後の13年1月、MV22オスプレイ配備撤回や米軍普天間飛行場の県内移設断念を求め、県内41市町村の首長や議会議長が上京し、政府に「建白書」を提出した。受け取った安倍晋三首相は「私も思うところがある。(沖縄の)意見に耳を傾けながら、これからも基地負担軽減を含め、頑張っていきたい」と述べるにとどめた。
13年4月28日、安倍政権は1952年に対日講和条約発効で日本が独立を果たした日にちなみ「主権回復の日」の式典を開いた。沖縄では、日本本土と切り離され米国統治の継続が決まったこの日が「屈辱の日」と認識されてきただけに「わが国の完全な主権回復」を強調した安倍首相の歴史観との落差が際立った。
「いい正月になる」。名護市辺野古の新基地建設を巡り、政府の出した埋め立て申請に対する県の判断が大詰めを迎えていた2013年12月、仲井真弘多知事(当時)は安倍政権から沖縄関係予算の大幅増額を含む振興策を提示され「有史以来の予算だ」と絶賛した。直後の年の瀬に仲井真氏は埋め立てを承認し、県民から大反発を招いた。
辺野古新基地建設に反対を掲げた故翁長雄志前知事が、首相や菅義偉官房長官と会談できたのは就任から4カ月後の15年4月。その後、政府は工事を一時中断して県と集中協議や和解に入ったが、新基地建設に反対する県の要望を受け入れることはなかった。
普天間飛行場問題の原点が1996年のSACO(日米特別行動委員会)合意にあると判で押したように説明する政府に対し、翁長氏は「それが原点ではない。普天間の住民が強制収容され造られた基地だ」とし、沖縄戦や強制接収が原点だと反論した。
2015年8月から約1カ月間、辺野古移設の工事を止めて県と政府による集中協議が計5回行われた。内実は、決して一致点を見いだす話し合いではなく、翁長氏が沖縄の実情を説明し、政府側は聞き役に徹する「言葉だけの」(翁長氏)協議だった。翁長氏の説明に菅氏が理解を示すことはなかったとされ、最後に翁長氏は「お互い別々に今日まで生きてきたんですね。70年間」とむなしさのにじむ思いを伝えた。
首相が繰り返してきた「沖縄の皆さんの心に寄り添う」との言葉とは裏腹に、選挙や県民投票などで示された県民の民意と向き合うことはなかった。政府と沖縄の溝が深まるばかりの7年8カ月だった。
(當山幸都、知念征尚)