<再考・那覇軍港移設>上 補給は沖縄の外へ 軍港もはや不要 日米は返還回避へ印象操作 我部政明・琉球大名誉教授


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浦添市への移設が計画されている那覇軍港=8月20日(小型無人機で撮影)

 米軍那覇港湾施設(那覇軍港)を浦添市へ移設する計画で、県や那覇市が推す北側案に浦添市が賛成する意向を示した。浦添市西海岸を埋め立てて、那覇軍港を移設する計画が加速する見通しとなる中、那覇軍港移設の必要性や自然環境への影響などについて識者に寄稿してもらった。
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 日米両政府に手玉にとられてきた沖縄側の基地対策について、基本的な転換に着手すべきときが来た。浦添への那覇軍港移転を当然視するのは、沖縄側の思い込みにすぎない。これまでの県内政治のしがらみから脱して軍港移転を再考する必要がある。そのために、米軍基地配置の基本的構図の理解が不可欠だ。

 沖縄の施政権返還を契機にして現在まで、沖縄での米軍基地の返還が進められてきた。一つは施政権返還にともなう米軍基地の整理が進められた1970年代である。もう一つは、冷戦が終わり新たな世界規模での米軍再編が進められるなか、1995年の少女暴行事件以降の基地の整理計画である。前者がベトナム戦争後に対応した。後者が冷戦後に対応した。そして、予想される今後の再編は、20年近いアフガン戦争を含む中東での一連の戦争後であろう。いずれも沖縄限定ではなく、米本土を含めた海外基地全ての再編である。

 朝鮮戦争後の1950年代後半、沖縄の米軍基地には集合、出撃、兵站(へいたん)(通常兵器、化学兵器、核兵器の貯蔵などを含む)、訓練に加え、休養や通信の機能が付与された。いまだに続く。ただ、沖縄と日本に置かれた通信基地機能は、通信技術の躍進により、地上設置の必要性が低下したため、縮小されている。また、化学兵器や核兵器は撤去されたとされる。

 沖縄には、東京に司令部(当時は府中、現在は横田)を置きながらも韓国の防空責任を負う米第5空軍指揮下に、嘉手納基地の航空師団(現在の航空団の前身)が配備された。韓国に新たに米第7空軍が創設されても、嘉手納の航空部隊は現在でも朝鮮半島危機に対応する態勢にあることに変わりない。北東アジアにある米空軍基地は、最大規模の嘉手納を含めて日本に三つ、韓国に二つだけだ。周辺のグアムに一つ、それ以東のハワイとなる。これまでの再編のなかで嘉手納基地への影響は小さかった。

我部政明氏

 キンザーと軍港

 米本土以外の唯一拠点となる沖縄の海兵隊は、一部をハワイに置きつつ、主力を沖縄に置く。その活動範囲は、基本的にインド・太平洋である。必要なときにイラン・アフガンにも送られてきた。新しく設置されたオーストラリア・ダーウィン基地に、米本土とハワイから海兵隊が派遣されている。さらに、防空能力をもち単独で戦える小規模な地上戦闘部隊の設置がハワイに予定され、沖縄にも及ぶと推測される。インド・太平洋での米国の戦争に投入される地上部隊である。

 そもそも米海兵隊全体が、米陸軍とは異なり、地上部隊の戦略予備として位置付けられ、必要なときに戦場に投入される。地上軍として、陸軍とともに海兵隊は沖縄戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、それ以降も戦場へと送られてきた。

 米海軍は、港湾施設が沖縄になかったため、小規模に留(とど)まってきた。海に突き出た桟橋だけのホワイトビーチの管理部隊、建設工兵部隊、対潜哨戒機部隊などが配置されていた。サンゴ礁に囲まれ、大きな港湾が建設されにくかったことと台風の多さが、海軍基地に不適とされた。代わりに、旧日本海軍の拠点・横須賀と佐世保が米軍基地となった。

 米陸軍は、米施政権下の沖縄での統治責任を担当した。その間の地上部隊の沖縄への配置は例外的であった。朝鮮戦争直前までいた部隊、ベトナム戦争直前までいた部隊は、それぞれいち早く投入されたが、戦争後に沖縄へ戻されなかった。当時の主要な機能は、防空と兵站であった。防空責任は、施政権返還以降、自衛隊の任務へ移管された。ただ、北朝鮮の弾道ミサイルの脅威増大に伴って、現在、嘉手納基地を守るPAC3迎撃ミサイルを装備した陸軍防空部隊が配備されている。

 陸軍のもう一つの任務であった兵站の拠点が、牧港補給地区(現在、米海兵隊キャンプ・キンザーを呼ばれる)であり、那覇軍港であった。朝鮮戦争やベトナム戦争のような限定戦争に対応できる規模とされてきた。

 不可欠ではない

 今後も沖縄に米軍の軍港が不可欠なのだろうか。陸軍管理下の那覇軍港返還合意(1974年1月)、浦添市を南北に走る58号線西側に位置する牧港補給地区の移転合意(2013年4月)からすると、従来あった沖縄での兵站機能の縮小を意味する。牧港補給地区にある倉庫群は沖縄の他の基地へ移転(2025年度以降)、残りは海兵隊の国外移転に伴って返還(2024年度以降)される計画である。1974年の沖縄内での軍港移転が兵站機能維持に沿った決定だったとしても、明らかな規模縮小だった。2013年以降、さらに状況が変わった。そもそもの兵站機能を沖縄の基地に与えることはなくなったと解すべきだ。後背地となる補給地区を欠いた軍港は、今や不可欠ではない、と。

 代替条件付きの那覇軍港返還を含む米軍基地返還の日米合同委員会合意を発表した翌日(1974年1月31日)、米総領事館が国務省へ送った公電が公開されている。それによると、満足感と粗探(あらさが)し批判が混在する初期の反応だと報告している。また、当時の革新勢力を基盤とした屋良朝苗・沖縄県知事、平良良松・那覇市長、又吉盛一・浦添市長、米須清興・宜野湾市長それぞれの思惑を紹介する。軍港移転を喜ぶ那覇市長に対し、移転先と目される浦添の市長が那覇の廃棄物処理場にされるのを警戒していると報告していた。宜野湾市長は、いつもの普天間飛行場返還を述べつつ、二つの基地(現在の宇地泊、真志喜)全面返還に感謝したと記されていた。

 自治体を分断

 米側は、これら基地返還の利益を次のように評価した。第1に、米軍で働く基地中従業員の組合(全軍労)が反対する解雇は、基地削減によって正当化できる。第2に、返還圧力の高い市街地に隣接する基地の返還合意だけで、返還が実現するまでの間、基地返還の圧力の緩衝として作用する。第3に、住民の視界から離れると、米軍基地の見た目(アピアランス)が小さくなるばかりか、那覇軍港のように基地内が丸見えの状態から脱することができる。第4に、新規の代替地を沖縄で求めるのに時間がかかるにしても、地元説得は日本政府の責任である。

 注目すべきは、第2以降の論理が巧妙に現在まで使われてきたことだ。返還合意から実現までに長期化しても、その間の返還要求がかわせる。移転が基地縮小となるよう印象操作をおこなう。財政支援を梃子(てこ)にして日本政府が、地元の自治体を分断して移転先を沖縄内に確保する。いずれもが那覇軍港の浦添移転に該当する。普天間移設も同様である。

 がべ・まさあき 1955年、本部町生まれ。慶応義塾大学大学院博士課程中退。琉球大名誉教授。専門は国際政治。現在、沖縄対外問題研究会代表。