琉球王府に連絡「のろし台」跡を発見 本島・国頭 伝達ルートに新視点も


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 【国頭】琉球王府時代に県外の船や外国船などの到来を知らせる烽火(ほうか)(のろし)を上げるのに用いた烽火台跡がこのほど、国頭村伊地で確認された。のろしの調査を続ける宮城樹正さん(73)=同村=が2018年12月、以前からあった烽火台跡から60メートル南西の地点で発見。県内で複数の烽火台跡が見つかるのは初めてといい、宮城さんは「(外国船の到来など)海上の状況に応じて煙の数を変えていたというこれまでの説を証明できる」と喜んだ。

新たに見つけた烽火台跡の前で、発見の経緯を説明する宮城樹正さん=4日、国頭村伊地

 のろしは琉球王府への通信・連絡手段だった。王府は1644年以降、本島、離島で海を見下ろす岬や小高い丘数十カ所に「トウミヤー(遠見屋)」を設置。琉球王国の歴史書「球陽」には久米島や慶良間諸島などの貢船を2隻確認すると「烽火二炬(きょ)を焼き」、外国船を確認すると「烽火三炬を焼き」と記されている。

 船を確認すると、各地で次々とのろしを上げ、王府のある首里城まで知らせた。やんばるは山が多く交通手段が少ない時代。防衛体制を支える迅速な連絡手段として機能した。

 烽火台跡は今回の発見を含めこれまで国頭村伊地で計3基確認された。最も北側にあったとされる1基は復帰前、工事で取り壊された。新たに見つかった烽火台跡は直径3メートルの円形、50センチほどの高さまで石が積まれている。中央には黒くなった炭化物もあった。

 一方で宮城さんは、3カ所で同時にのろしが上げられた場合「見る角度によっては煙が重なってしまう」と、これまで定説とされてきた「辺戸―伊地―古宇利」の伝達ルートの検証を訴える。古宇利から伊地方面を見ると、のろし3本が直線上になり、数が分からないとして、伝達ルートを「辺戸―伊地―伊是名―古宇利」と考察する。「伊是名から伊地が見えるのかどうか、実際に現地を訪れ実験したい」と語った。

 「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」の島袋和幸さん=伊江島出身、東京都在住=は「宮古、石垣など離島では(烽火台跡の)遺構が残っているが、本島内では伊地ぐらいではないか」と重要さを指摘する。説明板なども設置し「沖縄の『美ら島遺産』として残してほしい」と期待を込めた。