円盤投げの宮城 最高峰への夢 抱き始めた農林学校時代 初投げで上級生の記録超え<沖縄五輪秘話1>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
本人が保存していた新聞の切り抜きや自分史用の手記。各種大会の記念品や軍隊時代のアルバムなど多くの資料を残し、四男・栄敏が今も大切に保管している

 終戦後、沖縄陸上競技協会の立ち上げに携わり、後に会長を22年の長きにわたって務めるなど、競技の振興に多大な役割を果たした宮城栄仁(享年77歳)は1916(大正5)年6月30日、大宜味村根路銘の農家の長男として出生した。4歳の時、宮古島に移り住んだ。男2人、女2人きょうだいの一番上で、幼少期は破れた帽子で作ったグラブで野球をしたり、陣取りをしたりと活発だった。手記では「体も大きく力も強かったため、遊ぶ時は大将的な存在であった」と振り返る。

 平良尋常高等小学校を経て、叔父で後に琉球セメント社長を務める宮城仁四郎から経済的な支援を受けて33年、北谷村嘉手納にあった県立農林学校に進学。下宿から通学した。宮古島にいる母・カマドからの「私たちのことは心配しないで、体に十分気を付けて」という温かい手紙が、涙が出るほどうれしかったという。単身、学業に奮闘する日々。そこで円盤投げとの運命的な出合いが訪れる。

才能の片りん

 休み時間。運動場に出ると、上級生が円盤投げをしていた。生まれて初めて目にする競技。「珍しい競技だなあ」。眺めていると、放られた円盤が近くまで飛んできた。おもむろに拾い、投げ返した。飛んだ距離は22~23メートル。生まれて初めて円盤に触って投げ、20メートルほどだった上級生の持ち記録を上回った。類いまれな才能の片りんをのぞかせ、周囲を驚かせた。

 ある秋の日、体育の授業後にまた投げてみた。今度は27メートルを越えた。当時の県中学記録が28メートルほど。「これなら記録を破れるぞ」。ふつふつと興味が湧き、本格的に練習をするようになる。2年に上がった春ごろには31メートルまで記録を伸ばしていた。

 初めはフォームが分からず、遠心力を増すためのターンもしていなかった。すぐに好記録を連発した要因は何だったのか。宮古島出身選手の活躍をまとめた「栄光の系譜・中巻」(小禄恵良発行)に掲載されたインタビューで自ら分析している。「腕力でしょうね。私は柔道も強かったですから」。2年の時、沖縄神社祭という催事で開かれた柔道大会で12人を投げ飛ばしたという。腕(かいな)の強さが自慢の豪傑の体は幼い頃からの自然の中での遊びで鍛え強じんで、手も野球のグラブのように大きかったという。

陸上に専念

胸に日の丸を付けた学生時代の宮城栄仁(右)(沖縄陸協五十周年記念誌より、撮影年不詳)

 当時は円盤投げと柔道のどちらに専念するか迷いもあった。体育担当の家室京市教諭に相談すると、こんな答えが返ってきた。

 「陸上では将来オリンピックに出場することができるが、柔道ではできない。陸上に進んだ方が良い」

 柔道が五輪種目になったのは64年の東京五輪から。円盤投げを究めれば、世界最高峰の祭典に出られるかもしれない。手記では「これで陸上競技に専念することにした」と背中を押してくれた一言だったと振り返った。

 「沖縄県体育協会史」(県体育協会発行)には、水泳自由形の知念繁夫や平泳ぎの高江洲勲が30年代に五輪の候補選手となった記録が残るが、出場は果たせず。当時オリンピックは県出身アスリートにとって未踏の舞台だった。南国の島で伸び伸びと育った少年は壮大な夢を胸に宿し、直径20センチほどの円盤に青春の全てを注ぐ覚悟を決めた。

(敬称略)
(長嶺真輝)