円盤投げの宮城 厳しい鍛錬、実った日本新 欧州遠征 快挙の優勝 戦争近づく中、五輪へ望み<沖縄五輪秘話2>


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三重高等農林時代に日本選手権の円盤投げで41メートル51を投げ3連覇した宮城。翌年も制し、4連覇を果たした =1939年11月、明治神宮外苑競技場

 1935年夏、北谷村嘉手納の県立農林学校。夏休みで人影のまばらな運動場で、1日8時間、一人黙々と汗を流す生徒がいた。強い日差しが照り付ける中、円盤を放っては自分で取りに行き、また反対側に投げる。3年生になった宮城栄仁は燃えていた。

 この年の春、体育担当の家室京市教諭から「8月の全日本中学校競技会に出場させるから一生懸命やれ」とハッパを掛けられた。会場は国内スポーツの「聖地」、後に国立競技場となる明治神宮外苑競技場。専門の指導者はいなかったが、専門書を読んで手探りで理想のフォームを追究した。記録を36~37メートルに伸ばし、当時の日本中学記録、38メートルに迫っていた。「優勝する自信があった」

 船と汽車を乗り継いで東京入りし、迎えた本番。初めての全国の舞台で「出ている選手はみんな強そうに思えて、気後れした」と不本意な33メートル余りで3位に終わった。手記には「大きい試合になると力を十分発揮できないのは、気が小さいせいだろうか」とつづる。

 しかし翌週、同じ会場で開かれた全日本農林学校競技会で35メートル超を投げて優勝を飾る。その投てきは全日本中学校競技大会1位の記録を上回った。「(全国大会が)2回目ということもあったと思うが、落ち着いて投げることができた」。競技を始めてまだ2年弱。全国で頭角を現し始めた。
 

 卒業を前に中央大や東京農業大から誘いを受けたが、農業土木を学びたいといったことなどを理由に浪人の道へ。20歳で受ける徴兵検査を控え、立正大の夜間部に入り当時大学生に許された兵役の延期手続きを取った。東京の簡易保険局で働きながら、下宿先から徒歩10分ほどの場所にあった芝公園で練習を続けた。

 時は1936年。この年の第11回ベルリン五輪は国内予選で代表の標準記録に達せず選考から漏れたが、同年7月には国際オリンピック委員会(IOC)で40年の東京五輪開催が正式に決定した。後年のインタビューでは「東京オリンピックには燃えましたね」と当時の興奮を振り返っている。翌37年、手紙で「来ないか」と誘いを受けた三重高等農林学校(現三重大学生物資源学部)に入学した。
 

消えた“東京”

国際学生競技会に出場するため、ドイツのスタジアムでの練習に臨む宮城栄仁(左から2人目)ら日本選手団=1939年7月26日、ドイツ・ベルリン(本人保存の新聞切り抜きより)

 目標に掲げたのは当時の日本記録44メートル76。8畳一間の寮で先輩と共同生活しながら「筋肉が投てきに適応する様になるのではと考えた」と相変わらずの猛練習を続けた。右手の親指、人さし指、中指には血豆が絶えなかった。37年5月の全日本学生陸上競技大会を40メートル01で優勝。年内に自己ベストを41メートル92まで伸ばした。

 宮城が競技に打ち込む中、戦時色は一層濃くなっていた。同年7月の盧溝橋事件を皮切りに、日中戦争が本格化。軍部はインフラ整備など五輪に予算を回すことを嫌い始めた。国際社会からも交戦国での開催に対する反発が日に日に強まっていった。2年生に上がった翌38年7月15日、ついに開催権の返上が閣議決定され、開催地はIOC総会の投票で東京に敗れたフィンランド・ヘルシンキに変更された。
 

悲願の記録更新

宮城がドイツでの国際招待競技会で日本新を記録したことを報じる1939年7月31日付の新聞記事

 五輪がなくなったわけではないが、戦争の激化でヘルシンキ開催も雲行きが怪しい。39年、3年生となった宮城は8月にオーストリア・ウィーンで国際学生競技会が開かれ、これをメーンに欧州遠征団が組まれることを知った。

 「海外遠征は今回が最後になるかもしれない」。徴兵も控え、将来競技を続けること自体に不安も感じていた。さらに決意を固めて練習に励み、予選会で44メートル余りを投げ、遠征代表入りを決める。続く6月の東海学生対抗競技会では44メートル80を放り、ついに日本記録を4センチ更新した。手記には「欧州遠征に花を添えた」と記す。

 快進撃は続く。遠征中の7月29日、ドイツ・シュトゥットガルトで開かれた国際招待競技会で45メートル44を投げて日本記録をさらに更新し、強豪ぞろいの欧州で5位入賞を果たした。8月8日には五輪開催を翌年に控えたヘルシンキの大会に出場。この大会とさらに別の招待競技会で連続して優勝を飾った。日本選手団の大島鎌吉監督から「欧州で(日本の)投てきが優勝したのは宮城君が初めてだ」と称賛された。

 オリンピックに向け、つち音響くフィンランドの街の様子がまぶしく映った。帰国後、宮城が新聞に投稿した紀行文は活気づく現地の様子を伝える。

 「オリンピック競技場の工事も大半完了していて、現在はスタンドの増築を急いでいた。(中略)フィンランドはオリンピック大会も日本の参加があって初めて一層色彩を加えるものである、ということで大会参加を大いに勧めていた」
 心躍る文章には、時局が日増しに厳しくなる中、五輪出場へ望みをつなぐ宮城の心境がうかがえる。その後、選手団は国際学生競技会が開かれるウィーンへ。しかし、第2次世界大戦前夜の欧州。大戦勃発の足音は確実に忍び寄っていた。

(敬称略)
(長嶺真輝)