絶頂期に軍入隊 第2次大戦勃発 欧州脱出 円盤投げ 宮城栄仁<沖縄五輪秘話3>


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陸軍輜重兵学校時代、戦車の上に腰を掛けて写真撮影する宮城

 欧州遠征団の一員として、ドイツやフィンランドの招待競技会で優勝を飾るなど好成績を収めた円盤投げの宮城栄仁。一行は遠征の主目的である国際学生競技会が開かれるウィーンへ。1939年8月20日、満員の競技場で盛大に開会式が行われた。

 しかし23日、現地の新聞を目にした一団は驚がくの事実を知る。「ドイツとソ連、不可侵条約を締結」。敵対していた両国の軍事同盟は世界を激震させた。競技日程は24~27日。競技場の様子も一変する。宮城が新聞に寄せた紀行文にはこうある。「両日とも入場者なくて不気味な気持ちを与えた。入場者は出場選手のみである」。嵐の前の静けさだった。

最終便に乗り込む

軍隊時代に宮城がもらった寄せ書き。「柔道の達人」といった言葉が見える

 25日の試合で6位の成績を収め、その夜、宿で就寝していた時だった。遠征団の緊急招集で起こされる。ベルリンの日本大使館から届いた電報の内容を大島鎌吉監督が険しい表情で説明した。

 「いよいよ時局は切迫した。27日未明ハンブルグを出港する靖国丸に乗船されたい。おそらくは日本に向けての航海はこの船が最後だろう。この船に乗り遅れると生命財産の保障は大使館ではできない」

 時計の針は26日午前1時を指していた。一団は競技日程を残し、仮眠を挟んで午前9時26分発の列車でウィーンを立つ。翌27日朝にハンブルグに着くと、靖国丸は3時間前に既に出港していた。翌朝再び列車に乗り、ノルウェー・ベルゲンで船に追い付く。9月3日に欧州を脱出した。

 港で待機していた1日、ドイツがポーランドに侵攻し、3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告。一気に第2次世界大戦へと突入し、欧州は戦場と化した。靖国丸は米国を経由し、太平洋を横断して10月18日に横浜港に到着。航海中に攻撃を受ける危険性もあった。まさにほうほうの体で乗り付けた航海中の様子について宮城は「無事危険地帯を過ぎて9月26日ニューヨークに着き、避難民一同は初めて生き返ったように安堵(あんど)の胸をなで下ろした」とつづった。翌年に予定されていたヘルシンキ五輪は中止された。

日本選手権4連覇

 40年に三重高等農林学校を卒業後は満州へ。南満州鉄道に勤めながら競技に打ち込んだ。5月の関東州予選会では、円盤投げで戦前最後の日本記録となる46メートル19を記録。11月の日本選手権では4連覇を飾り、選手としてピークを迎えた。しかし、ついに入営の時を迎え、翌41年3月に熊本県の西部二十四部隊に入隊した。

 当時24歳。後年の新聞インタビューでは無念さをにじませる。「脂の乗り切った時に軍隊に引っ張られたのは残念です。まだまだ記録を伸ばせる自信はあったんですがね」。終戦後も国体などに出場したが、絶頂期のパフォーマンスを発揮することはできなかった。

 42年3月、軍需品を管理する兵士を養成する陸軍輜重(しちょう)兵学校を幹部候補生として卒業。戦争末期に陸軍中尉として南洋の戦地へと赴く。船団が魚雷攻撃を受けながらもシンガポールに到着し、インドネシアのスンバワ島やレンパン島などを経て、最終的にシンガポールで終戦を迎えた。手記には「食糧事情は極めて逼迫(ひっぱく)した」「骨と皮という状態になった」と飢えに苦しんだ経験などが記されている。翌46年5月に復員除隊後、10月に沖縄へ戻った。

 9年ぶりの故郷の地。旧知の仲で、後に沖縄陸上競技協会の初代理事長を務める平敷善徳や5代目会長となる伊良波長正の消息を聞いて回った。訪ね歩く先で、日米合わせて20万人余りが死んだ沖縄戦の話を聞く。県内の陸上競技は大会数や組織体制などで県外に後れを取っていることも痛感した。荒廃した故郷の現状を聞くにつけ、宮城の心中に強い思いが去来する。「沖縄の精神的な復興にはスポーツのほかにない」「沖縄陸上の振興のためには協会の設立が急務だ」。陸上人生の“第2章”が幕を開ける。

(敬称略)
(長嶺真輝)