審判員で五輪参加 円盤投げ 宮城栄仁<沖縄五輪秘話4>


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 沖縄陸上界の発展に向けた道筋を熱っぽく語る宮城栄仁に、期待と心もとなさの入り交じったまなざしが注がれていた。まだ戦後の混乱期にあった1947年4月、石川市(現うるま市)の宮森小学校の一室でのこと。

 「沖縄の体育関係の組織を日本の組織と同じ様にすることがスポーツの普及発達を促す。陸上競技協会を設立する必要がある」

 耳を傾けていたのは、県内の陸上関係者約30人。反応は鈍く、賛同者は少なかった。生活を米軍の物資に頼り、食べるのもやっとな時代。46年に沖縄体育協会(現県スポーツ協会)がいち早く復活したが、まだ県内に競技ごとの組織はなく、現実味の薄い話として受け止められた。

50年に協会設立

東京五輪で審判員のジャケットを着て試合に臨む宮城栄仁(左)。後に沖縄陸上競技協会副会長を務める国場幸忠と=1964年、東京の国立競技場(沖縄陸協五十周年記念誌より)

 沖縄陸上競技協会の設立20周年を記念した「20周年陸上競技記念誌」(72年、同協会発行)で宮城は「その会合では協会設立までには至らなかった。その中にいろいろと問題があり、しばらく冷却期間を置くことにした」と振り返っている。志を内に秘め続ける中、49年9月に県野球連盟が設立されるなど競技団体の設立に対する理解も徐々に深まってきた。50年5月、宮城や平敷善徳、伊良波長正らが規約を起草し、真和志市長などを務めた翁長助静を初代会長に据えてついに発足した。

 学生時代に学んだ農業土木の知識を生かし、沖縄民政府、琉球政府で働きながら、競技発展に奔走する日々。55年に日本陸上競技連盟検定員の委嘱を受け、58年10月に県内で初めて名護市営陸上競技場を第2種公認競技場に認定。同年に開催されたアジア競技大会の聖火リレーの沖縄誘致にも尽力した。60年には九州各県対抗競技大会の沖縄初開催も実現するなど、その功績は枚挙にいとまがない。

夢の成就

 沖縄の陸上競技振興に身を砕き続ける宮城だが、オリンピック出場への夢は失ってはいなかった。63年5月、吉報が届く。翌64年に開催される東京五輪の五輪候補審判訓練会に参加し、投てき審判員に内定した。5月18日付の琉球新報朝刊に歓喜のコメントがある。

沖縄マスターズ陸上競技大会に出場し、70代の日本新となる33メートル94を放る宮城。当時70歳=1986年9月15日、沖縄市陸上競技場

 「若い時にかなえられなかった五輪への夢がやっと実現した。五輪に参加する喜びは選手としても審判として変わりないだろう。いい審判をしたい」

 64年9月、沖縄にやってきた聖火リレーを国際通りで万感の思いを胸に見送り、迎えた10月の本番。約7万の観衆で埋め付くされた国立競技場のフィールドに立った。青い審判員ジャケットには左胸の日の丸がよく映えた。巻き尺を手に、やり、円盤、砲丸の距離を一回一回、丁寧に測定する。最大のスポーツの祭典を裏方として支え「世界の最高レベルを目の当たりにして緊張した。選手時代を思い出された」と感慨深く語った。

 当時48歳。五輪出場の夢を初めて抱いた県立農林学校3年時から、29年の時が流れていた。

 70年には沖縄陸協会長に就任し、以後22年の長きにわたり責務を全う。70歳で出場した86年の沖縄マスターズ陸上では、70代円盤投げの日本新記録となる33メートル94を投げ、国内トップに君臨した往年の姿をほうふつさせた。会長を退いた翌年の93年12月13日、77歳でこの世を去った。

 沖縄陸上界の発展に心血を注ぎ、人生を通して自らの限界に挑み続けた宮城。前出の20周年記念誌に寄せた寄稿文は、後進にささげる言葉として、文末をこう締めくくる。

 「最後に、若い人たちに望みたい。『自己の持つ秘められた可能性を努力によって可能ならしめる努力を惜しむな』。これが成功への道である」

(敬称略)
(長嶺真輝)
(「宮城栄仁」の項おわり)