1952年ヘルシンキ五輪で金 18歳で偉業の米移民2世 「沖縄の血、誇り」ヨシノブ・オヤカワ<沖縄五輪秘話5>


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 「ヨシノブ・オヤカワ」。競泳大国である米国の競技史に輝かしい経歴を残す県系人だが、父祖の地ではほとんど知られていない。戦前にハワイへ移民した両親の下に生まれた2世で、1952年のヘルシンキ五輪100メートル男子競泳背泳ぎで米国代表として金メダルを獲得した。県出身アスリートの五輪金メダリストはまだ誕生していないが、県勢が世界最高峰の舞台で頂点に立てる可能性が示された瞬間だった。

73年国際殿堂入り 「沖縄の血、誇りに」

記録をたどりながら、自身の人生を振り返るヨシノブ・オヤカワ。インタビューにはビデオ会議アプリ「ズーム」を活用した=9月3日、米国オハイオ州

 大観衆の視線は、身長170センチの小柄なスイマーに注がれていた。北欧はフィンランド・ヘルシンキ、屋外設置のスイミングスタジアム。52年8月1日の大会第14日だった。50メートルを折り返し、力強いキックで豪快に水しぶきを上げ、ぐんぐんと後続を引き離していく。オヤカワがトップで100メートルのゴールタッチをすると、会場は盛大な拍手に包まれた。

 「新聞にみるハワイの沖縄人90年―戦後編―」(発行・比嘉武信)によると、当時ハワイの邦字紙「ハワイ報知」は「親川義信選手は堂々優勝」の見出しで「ハワイ選手は(中略)ハワイのために万丈の気をはいた」と称賛した。当時、弱冠18歳。成した偉業とは対照的に、ゴール直後にテレビカメラへ向けた笑顔は少し控え目で、表情にはまだあどけなさすら残っていた。

 4年後のメルボルン五輪には米国水泳チームの主将として出場し、現役引退後は高校の指導者として手腕を発揮。73年に国際水泳殿堂入りを果たし、78年には米国オハイオ州の年間最優秀コーチ賞を受賞した。

 87歳となったオヤカワは、今もオハイオ州に住む。9月上旬、オンラインで琉球新報のインタビューに応じた。

 68年前の歓喜を「信じられない気持ちだった。『やった』という達成感がじわじわとこみ上げてきた」と懐かしそうに振り返る。沖縄の地を踏んだことはないが、多くの県系人に囲まれて豊かな人生を送り「沖縄の血が流れていることを誇りに思う。沖縄から金メダリストが誕生することを楽しみにしている」とオリンピックを目指す県勢に熱いエールを送った。

ハワイの自然で体鍛える

オヤカワが生まれる前、記念撮影する親川家と新城家。2列目の一番左が母の新城やえこ。父・親川喜七が写っているかは不明=1921年ごろ、米国ハワイ州(ロドニー・イネフクさん提供)

 ヨシノブ・オヤカワのルーツは羽地間切(現名護市羽地)にある。父の親川喜七は1897年に羽地の川上で出生した。「名護市史本編・5 出稼ぎと移民別冊資料編」(名護市発行)の記録によると、先に移民していたオヤカワの祖父・喜三郎に呼び寄せられ、1913年9月にハワイに渡った。その後、現地で60年以上にわたり牧師として活動した。母の新城やえこ(名の表記不明)は04年に同じく羽地の親川で生まれ、20年に家族で移民したという。親川、新城の両家は親交があった。2人はホノルルで出会い、28年に結婚した。

遊びで素地

 オヤカワは3人きょうだいの末っ子として33年8月9日、ハワイ諸島最大の島、ハワイ島西部にあるコナで生まれた。周りを見渡せば海、山、川。島中の自然全てが遊び場だった。活発だった幼少期の楽しみの一つは、両親と行くビーチでのピクニック。そこで父に泳ぎ方を教えてもらった。「海や川でたくさん泳ぎ、水泳の素地が養われたんだろうね」と振り返る。

 父が野球のコーチをしていたこともあり、小学生の頃はサトウキビプランテーションのリーグで野球とバスケットボールのチームに入っていた。

高校で頭角、強豪大へ

オヤカワ(前列左から3人目)が高校時代に所属していた競泳チーム。日系の選手が目立つ=1951年ごろ(ロドニー・イネフクさん提供)

 競泳選手を目指すきっかけは中学生の頃。ある日、父がハワイ報知に掲載された一つの記事を見せてくれた。内容は同じ県系人で、1マイル(約1・6キロ)の世界記録を保持し、後の75年に国際水泳殿堂入りを果たすケオ・ナカマの活躍を伝えるものだった。「これはすごい!」と競泳に興味が湧いた。48年、ヒロ高に進学し、15歳で本格的に競技を始めた。

 戦前、日本からサトウキビ産業の労働者として多くの移民を受け入れていたハワイ。沖縄からも1900年1月に26人が上陸し、第2回移民までに3年の空白があったものの、その後は次々と県民が海を渡った。オヤカワは「コーチは100人くらい選手を抱えていたけど、2、3人以外は日系人。沖縄県系人もたくさんいた」と記憶をたどる。

自由形から転向

 競技を始めた当初は自由形が主で、ハワイのジュニア200メートル記録を更新するなど、すぐに頭角を現した。しかし同級生のハワイ日系人で、後にヘルシンキ五輪の自由形種目で金二つ、銀一つを獲得するフォード紺野が他校にいたため、コーチから「フォードは自由形で断トツに強い。他の種目にしたらどうか?」と助言され、背泳ぎに転向した。16歳でのこの選択がはまった。

 幼い頃から遊びの中で鍛えた体は背泳ぎに必要な肩と脚の強さ、豊富なスタミナを既に備えていた。「自分の強みは特にキック。今でも太ももの筋肉は太い」という。ターンにも磨きを掛け、最終学年となった51年には背泳ぎ100メートルでハワイ新記録、全米2位のタイムを出すまでになる。同年、ハワイ出身のトップ選手を多く受け入れていたオハイオ州立大に進学した。

 米大学競泳界でイエール、ミシガンと並び立つ強豪校だった。「全国から優秀な選手がたくさん集まってきていた」。ヘルシンキ五輪まであと1年ほど。高いレベルでもまれ、オヤカワの才能はさらに大きく花開くことになる。

(敬称略)
(長嶺真輝、当銘千絵)