今こそライブで歌いたい エイサー伝道者 松田一利 <新・島唄を歩く>


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 エイサーの地謡で経験を重ねたことや三線の魅力などについて語る松田一利=8月、沖縄市のキャンパスレコード ((C)K.KUNISHI)

  沖縄の夏の風物詩といえばエイサーだ。今年は新型コロナウイルスの影響でエイサーがほとんど演じられない状況となっている。そんな中で、民謡歌手・松田一利(43)は、代々受け継がれてきたエイサーを途絶えさせてはいけない、練習を重ねてきたエイサーの発表の場を提供したいと奔走し、無観客での「リモートエイサー祭り」を企画、開催(9月27日)した。祭りは配信と同時に大反響となり、成功裡(せいこうり)に配信は10月4日で閉じられた。

 

 小浜 出身は北谷町謝苅ですね?

 

 松田 20歳までは育ちも謝苅です。

 

 小浜 謝苅エイサーは元々一つだった?

 

 松田 いや、謝苅の4区各々(おのおの)のエイサーがあって、旧謝苅1区は江口区で、2区が謝苅区、3区北玉区そして4区が宇地原区。下に降りたら砂辺。砂辺エイサーが一番古いですね。

 

厳しい稽古

 

 戦前までの北谷村は、現在の嘉手納町を含めた広い地域であった。北谷町のエイサーは戦前まで各字単位で行われ、どの字も盛んであった。「テンポの速さと動作の機敏性が県下に知れ渡っていた」(「北谷町史」)。

 

 小浜 最初の三線は?

 

 松田 三線始めたのはエイサーに入ってから独学で。

 

 小浜 エイサーは色々(いろいろ)な役割がありますけど、段階がある?

 

 松田 やっぱり一番最初は手踊り。それから小太鼓、大太鼓その上に地謡。全部経験しましたね。

 

 近年のエイサーは祖霊供養のために行われる盂蘭盆(うらぼん)芸能だけでなく、エイサー大会、結婚式や祝いの座での余興として年中行われている。古い伝統に新しい要素が加わり、現代では最も人気のある沖縄の大衆娯楽のひとつとなり、旧七月十五夜の各地の「道ジュネー」は県外からの観光客を呼び寄せる夏の一大イベントともなっている。

 

 小浜 松田弘一師の門を叩(たた)いた?

 

 松田 ただエイサーの地謡として上手(うま)くなりたいだけだった。家の近くに民謡歌手の先生が居るということは知っていた。酔っ払って門を叩いたら「今年は終わったから年明けてから来い」と言われて、指定日に恐る恐る訪ねたら「お前誰か?」

 

 小浜 親戚ですよね。

 

 松田 はい。僕の第一印象が悪かった。髪は金髪で、眉は半眉のヒンジャーニーセー(不良青年)。見捨てなかったですね。とても厳しく稽古してくれた。

 

弟子入り

 

一利が松田弘一に弟子入りしたのは彼が23歳の時。まず「かぎやで風」から手ほどきを受ける。一利にとっては「何だ、こりゃ?」であった。エイサー節を教えてくれと言うと「基本もできないで何がエイサーか」と一蹴された。その頃の一利は酒と喧嘩(げんか)にあけくれる荒(すさ)んだ日々を過ごしていた。そんな彼を師匠は見放さなかった。厳しい稽古をつけ、難題を課した。一利はそれに応えようと、空いている時間はとにかく三線を練習した。「歌三線でこの人が居なかったら真っ当に生きれなかった」と、一利は大声で笑った。

 

 小浜 エイサー曲は教えてくれなかった?

 

 松田 習いながら色々な話をしてくれるんです。昔のエイサー。「先輩達の工夫と努力があったからこそ今の歴史があるので感謝してます」って師匠に言った。

 

 「エイサーコンクール」で沖縄市や勝連半島に勝つために、他の団体から演目を取り入れたり、オリジナル入場曲を沖縄で初めて仕立てたりとか。その事が結果的に元々の謝苅エイサーを崩してしまったという反省、元々の謝苅エイサーの原型の事など、弘一師の話には裏も表もあり、汲(く)めども尽きないその知識には驚くほかなかった。

 

 小浜 ステージに上がったのは?

 

 松田 先生は反対してました。でも、自分は1曲覚えるたびに喜びがあり、家で弾くだけでは物足りなくなっちゃって、民謡酒場でアルバイトするようになった。それから余興に呼ばれ、ライブ活動などもするようになった時、キャンパスレコードに声を掛けられたというより、拾われた。

 

専属歌手に
 

キャンパスレコードから発表してきた松田一利のCD

 
 キャンパスレコードの専属歌手となり、一利の日常は一変した。まず、生活の全てを音楽に集中できるようになった。作詞作曲やプロデュースの方法なども社長(備瀬善勝)や他の先輩から吸収する事ができた。マネージングされたライブ活動。「自分にとって最も大きな出会いはキャンパスレコードです」と一利は強調する。

 

 小浜 同年代のよなは徹は意識しますか?

 

 松田 第一印象「上手やっさー」。あいつに負けたくないから稽古したということも。

 

 小浜 後輩の島袋辰也とか仲宗根創は?

 

 松田 彼らのCD聴いて「マクやっさー(大したやつだ)」。技術を吸収するために教えてもらいにも行った。

 

 小浜 これからの目標はなんですか?

 

 松田 ただ観客の前で歌いたい。ライブ活動を10年やって、沖縄の三線はロックにも負けない格好いい音楽だと気付いた。今この状況に人前で歌い、そのことを噛(か)みしめたい。
 (小浜司・島唄解説人)
 

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<肝誇(ちむぶく)いうた>
師のナークニーに衝撃

北谷前ぬちり弾き宮古根

 

一、遊びから戻い 謝名曲いすがちよ 覚びじはちちゃさ 野国野里(遊び帰りに謝名曲り過ぎて 知らずに来たよ野国野里)

 

二、北谷から桑江ぬ前 唄小しち通りば 謝名曲いまでぃね 姉小すびち(北谷から桑江あたり唄して通れば 謝名曲いまでに彼女をゲット)

 

三、桑江ぬ前とぅ遊でぃ 平安山やちゃすが 平安山と遊べ 砂辺やちゃすが(桑江の前で遊び 平安山は如何に 平安山で遊ぶと 砂辺はどうしよう)

~後略~

 

 松田一利が弘一師匠から習って一番印象に残る一番好きな曲は「北谷前のちり弾き宮古根(ナークニー)」だ。「本部ナークニー」や「今帰仁ナークニー」があるのに、遊び処北谷に「ナークニー」は無いのか、と長年の疑問を師匠にぶつけたところ「もちろんあるさ」と教えられたのがこの歌であった。演奏すると誰かに盗まれると思って、秘密にしていた師に、「師匠が居なくなったら無くなってしまう」と逆に不平をこぼした程。「連れ弾き=ちりびち」とは二つの絃を一度に弾く奏法で、初めて聴いた時の衝撃は今でも忘れない。是非継承したいと教えてもらった、本当に大事にしている曲だ。

 

 この節には北谷グチ(北谷言葉)のイントネーションが残っていて、芝居「丘の一本松」のセリフのような抑揚がある。また歌詞に出てくる「野国・野里」は嘉手納基地に接収され面影は微塵(みじん)も無い。宜野湾市の大山はかつて謝名具志川と称し、北谷の青年達は伊佐・喜友名「謝名曲り」辺りまでエネルギッシュに歌い遊んでいたことが分かる。