五輪2大会連続入賞 故郷ハワイ「活躍誇りに」 競泳背泳ぎ ヨシノブ・オヤカワ<沖縄五輪秘話7>


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若かりし日のヨシノブ・オヤカワをとらえた一枚。鍛え上げた体で金メダルを量産した(ロドニー・イネフクさん提供、撮影年不詳)

 試合で泳ぐたび、金メダルのコレクションが増えていく。米オハイオ州立大に在学中、ヨシノブ・オヤカワは全米大学体育協会(NCAA)が主催する大会だけでも背泳ぎ種目で7回の優勝を達成。世界の頂点に立った1952年のヘルシンキ五輪以来、競泳大国米国でトップに君臨し続けた。「ヘルシンキ後の4年間は負けたことがない。100メートルも200メートルも独占していた」。圧倒的な強さを誇った。

 五輪史上初めて南半球での開催となった56年のメルボルン五輪も国内予選を1位で通過。当時は米空軍に所属していた。実力が認められ、同じハワイ出身の日系人で、ヘルシンキ五輪で自由形2種目を制したフォード紺野と共同主将を務めることになる。

 本番は予選、準決勝を3位で通過。表彰台の自信はあったが「スタートでバーをつかむ手が滑ってしまい、ターンでもミスをしてしまった」と結果は8位。納得のいく内容とは程遠かったが、世界最高峰の舞台で2大会連続の入賞を成し遂げた。「自分は水の中では強かった」と胸を張る。

 活躍は、故郷ハワイでも頻繁に新聞などで報じられた。オヤカワのいとこであるロドニー・イネフク(77)=ハワイ在住=は「ヘルシンキの時、私は9歳だったけど、親族みんなが彼を誇りとしていたことを覚えている」と振り返る。「活躍が報じられるたび、友人やその親からもよくヨシの話をされた」。島から生まれたヒーローの活躍に皆が胸を躍らせた。

マスターズで米記録 往年の輝き再び放つ

直近の帰郷で、いとこのロドニー・イネフクさん(左)と写真に納まるオヤカワさん=2014年、米ハワイ州ホノルル(イネフクさん提供)

 1973年に選出された国際水泳殿堂のホームページでオヤカワは「最後の偉大なストレートアームプル選手」との称号で紹介されている。現在は水中で腕を90度曲げ、体の横でS字を描くように水をかく「ベントアームプル」が主流だが、オヤカワは腕を伸ばしたまま一直線に水を捉えるストレートアームを貫いた。その泳法で世界の頂点に立った最後の選手として競泳史に刻まれている。

 メルボルン五輪を終え、数年後に一線を退いた。その後は高校の体育教師の道へ。オハイオ州シンシナティのオークヒル高で25年間教えるなど、30年以上にわたり高校で水泳を指導した。多くの一流スイマーを育て、78年にオハイオ州の年間最優秀コーチに輝く。当時も「生徒と一緒にウエートトレーニングをしていた」と鍛錬は続けた。

 87歳となった今も現役スイマーだ。「自分にはこれが合っている」と泳法は最盛期の頃のままのストレートアーム。現在でも肩が強く、キック力を支えるももも太いままだという。85歳で出場したマスターズ大会の85~89歳の部では背泳ぎ50メートルで米国記録を樹立し、往年の輝きを再び放った。

県勢にエール

 53、55の両年に米国代表のメンバーとして大会出場のために来日したことはあるが、自身のルーツである沖縄は一度も訪れたことがない。「沖縄の血が流れていることを光栄に思う」と誇る両親の故郷の地。「もう少し自分が若ければ、沖縄に行って若いスイマーを指導したかったね」と柔らかい笑顔を見せる。

 ビデオ会議アプリ「ズーム」を用いたインタビューの最後に、オリンピックを目指す県勢アスリートへのエールを求めると、力強い助言が返ってきた。

 「スポーツに身長や体格は関係ない。劣っているところがあれば、フィジカルトレーニングと精神面で補えばいい。絶対に勝てると自分を信じることが大切だ。沖縄から金メダリストが誕生することを楽しみにしているよ」

 努力の成果を五輪金メダルという最高の結果で示したトップアスリートの言葉に、この上ない説得力がにじんだ。

(敬称略)
(長嶺真輝、当銘千絵)
(「ヨシノブ・オヤカワ」の項おわり)