10・10空襲 熊本疎開の古謝さん、家族は「全滅か」連日涙に暮れ 帰郷後に無事知る


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 76年前、10・10空襲の知らせを遠く離れた場所で聞いた人々がいた。沖縄で地上戦が迫る中、九州に学童疎開していた子どもたちだ。親元を離れて生活を始めたばかりだった疎開児童は、教員から「沖縄が空襲でやられた」と突然聞かされた。子どもたちはどんな思いでこの知らせを聞いたのか。

疎開先の熊本県で聞いた「10・10空襲」の知らせについて振り返る古謝菊枝さん=5日、うるま市

 沖縄での地上戦が必至となった1944年7月。県は戦争遂行の「足手まとい」になる60歳以上15歳未満の老人や女性、子どもらの県外疎開を急ピッチで進めた。同年8月15日に学童疎開の第一陣が出発し、同年10月までに約6千人の児童らが九州各県に渡った。

 中城村出身の古謝菊枝さん(89)=当時14歳=は、中城国民学校の児童・教員ら約90人と共に熊本県に疎開した。到着して約1カ月が過ぎた10月中頃。宿泊先の旅館の一室に集められ引率教諭からこう告げられた。「沖縄は爆撃でやられた」

 菊枝さんは「沖縄はやられたと聞いて皆ワーワー泣きじゃくった。私も親きょうだいは全滅したと思って、どうしようもない気持ちだった」と振り返る。その夜、先生は「南の方を向いて黙とうしよう」と言い、皆で祈ったという。それからは、思い出しては涙が流れた。寂しさや空腹、経験のない寒さが疎開児童を襲い、生きるので精いっぱいの日々が続いた。沖縄の情報は届かず、菊枝さんが家族の無事を知ったのは、46年秋の帰郷後だ。

1945~46年ごろに熊本県で撮影された中城国民学校の疎開児童や教員ら(中城村教育委員会提供)

 菊枝さんと同時期に熊本県に学童疎開した南城市大里出身の饒平名千代子さん(88)=当時12歳=は、疎開先の校長から朝礼で空襲の報告を受けた。南城市教育委員会刊行の「南城市の沖縄戦 資料編」に収録されている千代子さんの疎開回顧録には「沖縄の生徒は運動場で泣き崩れた。状況が全く分からない」と記されており、動揺する子どもたちの様子が伝わる。その後、沖縄の父から無事を知らせる手紙が届き、「涙で字が読めない。うれしいのか、悲しいのか泣けて泣けて仕方がない」と当時の心境をつづっている。

 那覇市が93年に発行した「那覇学童疎開体験座談会記録」には引率教員の体験談が載っている。10・10空襲の知らせを聞いた後、子どもから笑顔が消えたことや、不安を紛らわすために夜の運動場で皆でへとへとになるまで歌って子どもたちを寝かせたことを記録している。

 南城市の学童疎開を調査した同市教育委員会文化課市史編さん専門員の山内優希さんは「10・10空襲や沖縄“玉砕”の知らせは、親元から離された子どもたちに想像を超える悲しみを与えただろう。家族の安否を知らされぬままの約2年の疎開生活は、子どもが経験するにはあまりに過酷なものだ」と語った。

(赤嶺玲子)