コロナで中止の那覇大綱挽、保存会長「平和綱を来年こそ」 10・10空襲で復興のシンボル


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那覇大綱挽への思いを語る同保存会の玉城正一会長=9日、那覇市の同保存会事務所

 沖縄戦を乗り越え、1971年に復活した那覇大綱挽。10月10日に開催された理由には米軍の無差別攻撃を受けた44年の10・10空襲にちなんで恒久平和を祈念するという趣旨もあった。楚辺国民学校2年生の時に10・10空襲を体験した那覇大綱挽保存会の玉城正一(せいいち)会長(85)は「先人が平和の象徴として綱を引いたことを忘れてはいけない」と強調する。

 11日に予定されていた今年の大綱挽は新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止されたが、関係者は来年の成功を目指して準備を進めている。

延べ20万人が訪れた第1回那覇大綱挽。1時間の熱戦の末、東西引き分けに終わった=1971年10月10日、那覇市久茂地

 44年10月10日の朝。玉城さんは学校に行こうと那覇市泉崎の自宅を出た。上空を米軍機が「ゴーッ」と爆音をたてて小禄方面へ飛んで行った。「おーい、空襲どー」。警防団が叫んだ。慌てて自宅の庭の防空壕に入った。昼過ぎに外へ出ると、久茂地の電気会社周辺が煙を上げて燃えていた。「ここにいては大変だ」。県立第二中学校近くの大きな防空壕へ逃げた。「機銃掃射や爆弾の破裂音がして、ただ親にすがっていた」。翌朝、外に出ると周辺に爆弾の破片が散らばっていた。「壕に入らなければ死んでいた」と震えた。翌年1月に大宜味村に家族で疎開し、飢えに耐えながら戦をしのいだ。「収容所で食べたにぎり飯のおいしさは忘れられない」

 玉城さんは戦後、那覇市役所に入庁。第1回大綱挽から関わり、綱挽を担当する観光課長、経済部長、助役などを歴任した。2017年から保存会会長を務める。

 「体育の日」が10月10日から同月第2月曜に変更されたことに伴い、大綱挽は00年から同月第2日曜に開催されるようになった。それでも玉城さんは「先人が焼け跡から街を復興させ、平和のシンボルとして綱を引いたことを次世代に伝えたい」と語る。

 今年の大綱挽は「苦渋の決断」で中止したが、この機会に大綱の芯となる綱を約20年ぶりに一から作り直している。来年は市制100周年という大きな節目。玉城さんらは「新しい綱で盛大に祝いたい」と意気込む。

(伊佐尚記)