「せめて聖火だけでも…」交渉重ねて実現 立役者は沖縄政界の大物だった<沖縄五輪秘話8>


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沖縄聖火リレー実行委員長の当間重剛(中央右)から第1正走者の宮城勇(同左)へトーチが手渡された瞬間。多くの民衆や報道陣らが周囲を取り囲んだ=1964年9月7日正午すぎ、那覇空港(県公文書館所蔵)

 快晴の西の空に機影が現れた。「あ、あれだ」「来たぞっ」。叫び声に詰め掛けた人々の視線が一斉に向けられる。せきを切ったように那覇空港が歓声に沸いた。1964年9月7日正午。機首に五輪マーク、機体に「オリンピック・フレーム・スペシャル」(聖火特別機)と英字で書かれた「シティ・オブ・トウキョウ」号が到着した。米空軍音楽隊によるマーチが鳴り響く中、民衆は降り立った機体を万歳で迎えた。

 戦争の激化で40年の開催権を返上し、24年間の回り道をしてついに開催が決まったアジア初のオリンピック、第18回東京大会。開幕約1カ月前に始まった国内聖火リレーのスタート地点は沖縄だった。米施政権下で日本国旗の掲揚は制限され、本土渡航に米国民政府の許可が必要だった。人々はギリシャのオリンピア遺跡から1万6千キロの行程を経てやってきた平和の祭典を象徴する炎に、祖国復帰や沖縄戦戦没者の鎮魂を投影した。

 

■日本体協に要請

 聖火の沖縄誘致における最大の功労者は、24年にスポーツの愛好家を集めて沖縄体育協会を設立し、終戦直後の46年に復活した協会の会長を務めた当間重剛だ。那覇市長や第2代琉球政府行政主席(56~59年)を務めた政界の大物でもあった。東京五輪の開催が国際オリンピック委員会(IOC)の総会で決まった2日後の59年5月28日付、琉球新報朝刊には既に聖火の沖縄通過を求めるコメントが載っている。

 「東京までオリンピックを見に行けない人のためにせめて聖火だけでも見てもらい、フェアプレーの精神を理解するよすがとしてもらうことは社会的にも極めて有意義なことだと思う」

 当間が交渉のよりどころとしたのは、日本体育協会だった。沖縄体協が53年に支部として承認を受け、スポーツ界がいち早く“日本復帰”を果たしており、中央とのパイプは既に構築されていた。また、当時沖縄テレビ放送の社長も務め、東京とのテレビ同時中継を可能にするOHマイクロ回線の敷設に関する打ち合わせで上京することも多く、そのたびに日本体協に聖火の沖縄通過を要請した。

 「当間重剛回想録」(発行・同回想録刊行会)は「沖縄体協や琉球政府からも陳情書を出し、根気強く要請したかいがあって、聖火の沖縄通過が決まり…」と経緯をつづる。58年に東京開催のアジア競技大会の際も聖火を迎えた実績もあり、62年7月4日に東京オリンピック準備委員会が聖火の沖縄通過を正式に発表。64年3月20日には聖火沖縄リレー実行委員会が設けられ、当間が委員長に就いた。

 

■足止め

台風で聖火の沖縄入りが1日遅れ、オリンピック東京大会組織委員会の職員と急きょ聖火リレーの日程を再調整する当間重剛(右列の一番奥)ら=1964年9月5日

 60年代前半の沖縄は祖国復帰運動の熱気がより高揚していった時期だった。強権姿勢が「旋風」と呼ばれたポール・W・キャラウェイ陸軍中将が61年に第3代高等弁務官に就任し、行政や金融機関の人事に直接介入。63年には講演で「(沖縄の)自治は神話である」と断言し、復帰運動の熱気がさらに高まった。

 五輪開催年の64年、立法院は祖国復帰や主席公選実現を求めて次々と決議。保守層の反発も強まる中、6月には大田政作主席が辞表を提出した。混とんとした状況の中、米本国は沖縄の日本復帰に前向きな姿勢を示していたため、強圧統治のキャラウェイを8月に解任。大きな時代のうねりの中、聖火が沖縄を駆ける9月を迎えた。

 当初、沖縄のリレーは6~9日の予定だったが香港で台風に見舞われ、1日足止めされる。5日、対策協議の場で大会組織委の与謝野秀事務総長は本土での日程を変更せず、沖縄の行程を短縮する意向を示した。当間ら沖縄側は「日本の敗戦がしわ寄せされているのが沖縄の現状なのに、県民待望の聖火リレーまで沖縄にしわ寄せされるのは耐えられない」(前出の回想録)と反発。結果、久志村(現名護市)嘉陽で分火、一方は鹿児島に空輸。もう一方は予定通り沖縄一周することで決着した。

 晴れて聖火は、7日正午に沖縄に到着。那覇空港での盛大なセレモニーの後、赤橙色の炎をともしたトーチは当間委員長から琉球大4年の日本側第1正走者、宮城勇(78)=浦添市=の手へ。沖縄が熱狂の渦に包まれた5日間が幕を開けた。 

 (敬称略)
 (長嶺真輝)