10・21県民大会から25年 命脅かされ続けている 当時登壇した玉寄哲永さん 続く基地重圧 苦しみ今も


社会
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1995年当時の日誌を見返しながら、県民大会を振り返る玉寄哲永さん=19日、那覇市内

 1995年10月、米兵3人による少女乱暴事件に抗議するため8万5千人(主催者発表)が集まった県民大会から、21日で25年がたった。事件は県民の人権が侵害される状況や沖縄の過重な基地負担を浮き彫りにしたが、四半世紀たってなお米軍絡みの事件事故は後を絶たない。当時、県子ども会育成連絡協議会会長として登壇した玉寄哲永さん(86)=那覇市=は「21世紀に向けて基地の固定化はあってはならないと訴えたが、状況は変わっていない」と話す。 

 95年は、戦後50年の節目の年でもあった。那覇で育った玉寄さんは国民学校4年生だった44年の「10・10空襲」や翌年の地上戦を経験した。「大きなショックを受けたと思う。乗り越えてほしい」。沖縄戦当時に同世代だった自身の記憶が重なるという。

 県民大会では、先に登壇した大田昌秀知事(当時)が「幼い少女の尊厳を守れなかったことをおわびしたい」と述べた。

 「グサッと胸を刺される思いがした」。子どもが普通に成長する権利さえ侵害されている現状。壇上で玉寄さんは「子どもたちに胸を張ってもらえる沖縄をつくっていくことは私たちの責任だ」と訴えた。

 25年が経過し、大田知事をはじめ鬼籍に入った県民大会関係者は少なくない。玉寄さんは「あの時行動した誰もが、重圧や抑圧の中にある沖縄問題に風穴を開けたい思いだった」と振り返る。

 米軍関係者の事件事故はその後も問題化し、95年の事件を機に日米両政府が決めた米軍普天間飛行場の返還はいまだ実現せず、名護市辺野古での新基地建設が強行されている。

 「重圧は今も続いている。政府の言う日米安保によって守られるはずの生命や財産が、実際には沖縄では奪われ、脅かされている」。玉寄さんはそう何度も語った。

 (當山幸都)