名護市嘉陽にある白い聖火台には、62年もの歴史がある。1964年の東京五輪からさかのぼること、6年前の58年。東京で開かれた第3回アジア競技大会の聖火リレーが沖縄にやってくることが決まり、その受け入れのために作られた。
「沖縄陸協の平敷(善徳)理事長から依頼があったから聖火台を作ってくれ」。58年の春先、那覇市松山にあった琉球石油(現りゅうせき)の一室。経理を担当していた森山一成(85)=浦添市=は急に役員に呼ばれ、伝えられた言葉に耳を疑った。当然聖火台を作ったことはなく、点火の仕組みも分からない。当時22歳。降って湧いた大役に戸惑った。
沖縄陸協から制作者に選ばれた理由は、53年と54年の国体に短距離選手として出場し、大会中に五輪の聖火に当たる炬火(きょか)台を見たことがあり、燃料を扱う会社に勤めているからというだけだった。「私じゃなくてもいいのでは?」と抵抗してみるが、役員は取り付く島もない。「燃料となるガスや石油は会社にたくさんあるから、至急作ってくれ」。聖火の沖縄入りは約1カ月半後に迫っていた。
鍋、土管を活用
まず国体で見た聖火台を思い返す。受け皿がおわん型で、下には支柱があった。次に問題を紙に書き出してみる。「燃料は何を使うか」「どう上部に燃料を送るか」「火に耐えられる素材は何か」。見本や設計図もなく、全てが一から。当時記したメモには強い焦燥感が漂う。「急がなければ、日数がない」
燃料を初めに決めた。実際の聖火台はガスを使うが、高価であり、本番では2日間燃やし続けるためより安い石油にした。次に支柱部分の素材。道端を歩いていると、工事現場で土管として使われるヒューム管を目にし「これを使えないか」と直感した。値段も手頃で、即決定した。
おわん型はどう作るか。所属していた琉球石油陸上部の行きつけで、那覇市の公設市場内にあったという大城食堂に行った時のこと。台所で煮物を作っていたシンメーナービ(大型鍋)を見て「これだ」と思い立った。鍋から燃料を絶やさないため、ヒューム管の中に水道パイプを通し、少しずつ石油を供給して石綿に染み込ませて燃やす。直接トーチで鍋の底に点火する必要があるため、高さはランナーの脇下になるように約1メートル30センチにした。
聖火が沖縄入りする前日の58年4月21日に森山の創意工夫の結晶は那覇市の政府前広場に設置された。本番当日の22日は午後8時40分から20分間の灯火管制があったが、米軍から特別な許可を受けてその間も赤々と燃え続け、寝ずの番で火を見守った。23日付の琉球新報朝刊は見出しで「不滅の聖火」と称した。
3度目を心待ち
6年後の64年9月、再び沖縄を聖火が駆けることになった。その約1カ月前、本番さながらのリハーサルが行われた時のこと。宿泊地の嘉陽ではアジア大会の時にドラム缶にまきを入れて燃やしていたため、五輪聖火リレーでも同様な形を想定していたが、これが問題になった。「報道陣が『社会的な一大イベントの聖火をドラム缶で燃やすと映像にならない』と注文を付けた」という。そこで再び白羽の矢が立ったのが、森山の聖火台だった。
聖火台はアジア大会後、琉球大学博物館に展示されていたが、博物館が移転され、その後は同大体育館の倉庫に保管されていた。パイプのバルブがなくなり、鍋にも穴が空いて「ぼろぼろだった」というが、急ぎ修復し、トラックで嘉陽に運んで取り付けた。「嘉陽は海が近くて風が強いから相当神経を使った」と、本番はまたも寝ずの番。9月9日朝に聖火を送り出し、大役を終えて「とにかくほっとした」と振り返る。
聖火台はその後も地域に親しまれ、毎年9月に開かれる久志駅伝と久志20キロロードレースの際には点火する。「今も使えるのは地域の人がしっかり管理してくれたから。聖火台が60年後まで多くの人に感謝されることは、本当に自分の誇りだ」と感慨深げ。来年には3度目の聖火がともる。「また事前にテストもしないといけない。嘉陽で聖火を待ちますよ」。若々しく、腕をまくった。
(敬称略)
(長嶺真輝)
(「東京五輪聖火リレー」の項おわり)